2021-10-18
◆地蔵寺釈厄外伝記について その9 地蔵寺釈厄外伝記の世界 開催中です。
前回の続きです。お寺に納めた方(地蔵寺縁起書)を紹介させて頂きました。
この縁起書、父の手を借り、稲荷神の言霊を文字に起こして書いた訳ですが、お寺に納めていない大部分が現在未完状態です。
そちらは地蔵寺釈厄外伝記との題名にしました。
本年7月2日、父は永眠致しました。
お世話になったお客様には、本当に感謝しております。ありがとうございました。
父が寝たきりになっていた時、丁度亡くなる一か月くらい前でしょうか。一日だけ元気な時がありました。
その時が多く言葉を遺した最後でしたが、家族一人一人、必要な言葉をもらいました。
私に遺した言葉の一つに、父がライフワークで書き続けた地蔵寺縁起書の話がありました。
父は、「地蔵寺釈厄外伝記は親子二代で完結させる」と言いました。
私は霊能力はありません。父のような芸当はとても真似できない旨を伝えましたが、父は「お前ならやれる」と言いました。
一体どうやってと思いましたが、あの父がやれると言ったので、今ではやれるのではないか?と漠然とですが、そんな気がします。
父は他に、自分の代ではやりたくともやれなかった仕事を家族に託しました。今、一つずつそれを形にしております。
父が亡くなって数日後、本当にお世話になった地蔵寺さんへお参りに行きました。ご本尊の地蔵菩薩と、寺の守護神白旗稲荷大明神へ、お礼を言いに行きました。
父は血液の難病を患っていましたが、その病気を患った人で一番長生きした人でもありました。
これも一重に神仏の御力だと思います。お地蔵様や白旗稲荷の御力も多分に頂いておりました。お礼参りですね。
本堂の前でお参りし、既にご存知かと思いながら父が亡くなったことを報告し、地蔵寺釈厄外伝記の残り部分の執筆を引き受けたことを白旗稲荷大明神に言葉でこう述べました。
「父から地蔵寺釈厄外伝記を完結させる旨を頂きました。今の私ではなかなか難しいかと思いますが、時期が来ましたらご尽力下さいませ。よろしくお願い致します。」
その日は曇天でした。しかし、私が言葉を言い終えて間もなく、私がお参りした辺りだけ陽が差しました。偶然ですが、私は白旗稲荷大明神が「うむ!」と答えてくれたような気がしました。
大きな宿題が出来ましたが、何とか完成させたいと思います。
さて、父の最後の企画した店内イベント「地蔵寺釈厄外伝記の世界」、現在開催中です。
疫病神、貧乏神の封じに長けたと言われる玉圓尼和尚の念持仏を特別開帳致しております。またこれも父のアイデアですが病気封じの掛軸も展示販売しております。
世間はようやくコロナも収まりつつあるかな?と思いますが、これをお読みの皆様に、一人でも多くの方に仏縁が繋がりますよう、気になった方は是非当店まで遊びにいらして下さいませ。

紅葉屋呉服店はこちらまで
この縁起書、父の手を借り、稲荷神の言霊を文字に起こして書いた訳ですが、お寺に納めていない大部分が現在未完状態です。
そちらは地蔵寺釈厄外伝記との題名にしました。
本年7月2日、父は永眠致しました。
お世話になったお客様には、本当に感謝しております。ありがとうございました。
父が寝たきりになっていた時、丁度亡くなる一か月くらい前でしょうか。一日だけ元気な時がありました。
その時が多く言葉を遺した最後でしたが、家族一人一人、必要な言葉をもらいました。
私に遺した言葉の一つに、父がライフワークで書き続けた地蔵寺縁起書の話がありました。
父は、「地蔵寺釈厄外伝記は親子二代で完結させる」と言いました。
私は霊能力はありません。父のような芸当はとても真似できない旨を伝えましたが、父は「お前ならやれる」と言いました。
一体どうやってと思いましたが、あの父がやれると言ったので、今ではやれるのではないか?と漠然とですが、そんな気がします。
父は他に、自分の代ではやりたくともやれなかった仕事を家族に託しました。今、一つずつそれを形にしております。
父が亡くなって数日後、本当にお世話になった地蔵寺さんへお参りに行きました。ご本尊の地蔵菩薩と、寺の守護神白旗稲荷大明神へ、お礼を言いに行きました。
父は血液の難病を患っていましたが、その病気を患った人で一番長生きした人でもありました。
これも一重に神仏の御力だと思います。お地蔵様や白旗稲荷の御力も多分に頂いておりました。お礼参りですね。
本堂の前でお参りし、既にご存知かと思いながら父が亡くなったことを報告し、地蔵寺釈厄外伝記の残り部分の執筆を引き受けたことを白旗稲荷大明神に言葉でこう述べました。
「父から地蔵寺釈厄外伝記を完結させる旨を頂きました。今の私ではなかなか難しいかと思いますが、時期が来ましたらご尽力下さいませ。よろしくお願い致します。」
その日は曇天でした。しかし、私が言葉を言い終えて間もなく、私がお参りした辺りだけ陽が差しました。偶然ですが、私は白旗稲荷大明神が「うむ!」と答えてくれたような気がしました。
大きな宿題が出来ましたが、何とか完成させたいと思います。
さて、父の最後の企画した店内イベント「地蔵寺釈厄外伝記の世界」、現在開催中です。
疫病神、貧乏神の封じに長けたと言われる玉圓尼和尚の念持仏を特別開帳致しております。またこれも父のアイデアですが病気封じの掛軸も展示販売しております。
世間はようやくコロナも収まりつつあるかな?と思いますが、これをお読みの皆様に、一人でも多くの方に仏縁が繋がりますよう、気になった方は是非当店まで遊びにいらして下さいませ。

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2021-08-18
地蔵寺釈厄外伝記 その8
久しぶりの更新となりましたが、父の遺した地蔵寺縁起書の最後の部分です。
以下どうぞ。
とうとうお読みになりましたね。七月七日、七首の歌の、狐の霊言
「にこしかにこそ」が言霊と
安倍晴明申します。
これを、お読みのそれ其方
地蔵寺の御本尊
延命長寿の地蔵尊
オンカカカ オンカカカ
笑ひ声も響きます。
お家繁盛まちがい無しと
白旗稲荷の大明神が
太鼓判を押されます。
白旗靡きてハタ、旗、秦と
ありがたや ありがたや
古代、日本人にとって言葉は霊であり、霊は言葉であった。そのように信じておりました。古代人はこれを言霊(ことだま)と申しておりました。
本文最後の行に七月七日七首の歌、狐の霊言(れいごん)とありますが、次なる行には「にこしかにこそ」が言霊と逆さまになっておりまする。
これはその前に「そこにかしこに」の七文字をそのまま逆さにしたものです。地蔵寺縁起書霊験檀、その後の続きは如何なるか。
それらの総てのお話は、これをお読みのそれ其方、檀信徒の皆様と御総代のご信心、延命地蔵と白旗の慈悲とお徳を戴いて、その後のお話書き綴り、尾張名古屋一番の霊験地蔵の、おん寺となりて白旗ハタハタと五月の空にはためいて、歌の一首を今ここに、歌って舞い上げ仕る。
瑠須庵が 舞うや仕舞いの 舞い納め
鼓は品(ほん)と 扇は礑と
瑠須庵に 皆騙されて 来て見れば 地蔵はカカカ 稲荷はるふふ
合掌
※品…普門品(ふもんぼん)の一章の名
地蔵寺縁起書 終わり

以下どうぞ。
とうとうお読みになりましたね。七月七日、七首の歌の、狐の霊言
「にこしかにこそ」が言霊と
安倍晴明申します。
これを、お読みのそれ其方
地蔵寺の御本尊
延命長寿の地蔵尊
オンカカカ オンカカカ
笑ひ声も響きます。
お家繁盛まちがい無しと
白旗稲荷の大明神が
太鼓判を押されます。
白旗靡きてハタ、旗、秦と
ありがたや ありがたや
古代、日本人にとって言葉は霊であり、霊は言葉であった。そのように信じておりました。古代人はこれを言霊(ことだま)と申しておりました。
本文最後の行に七月七日七首の歌、狐の霊言(れいごん)とありますが、次なる行には「にこしかにこそ」が言霊と逆さまになっておりまする。
これはその前に「そこにかしこに」の七文字をそのまま逆さにしたものです。地蔵寺縁起書霊験檀、その後の続きは如何なるか。
それらの総てのお話は、これをお読みのそれ其方、檀信徒の皆様と御総代のご信心、延命地蔵と白旗の慈悲とお徳を戴いて、その後のお話書き綴り、尾張名古屋一番の霊験地蔵の、おん寺となりて白旗ハタハタと五月の空にはためいて、歌の一首を今ここに、歌って舞い上げ仕る。
瑠須庵が 舞うや仕舞いの 舞い納め
鼓は品(ほん)と 扇は礑と
瑠須庵に 皆騙されて 来て見れば 地蔵はカカカ 稲荷はるふふ
合掌
※品…普門品(ふもんぼん)の一章の名
地蔵寺縁起書 終わり

2021-06-03
◆地蔵寺釈厄外伝記 その7
◎六世戒心玉圓尼和尚の詠みし七首の歌
知らしめす 白旗稲荷の 呪法とは
ハタと飛び交い 歌に詠む
稲荷の呪法といえば「御玉転がし」白旗稲荷の御神号は、しら鳥がハタハタと舞い飛び歌を詠みて、その霊力と白旗の謂れを知らしめすと言ふ。
襤褸なる 纏いし衣の在の衆
残りし物は 白き玉石
襤褸(らんる)とは漢語でボロの意と聞く。ボロを纏った村人ですが、残ったお宝は白き稲荷の御宝玉、有難や有難や
礑(はた)と見た 大明神の おん奇跡
玉圓尼とて 思いもせずに
次々と起きる稲荷大明神の奇跡。しかし明治四十五年の火災で玉圓尼の詠みし歌帖も焼失した。その歌が今またここに再現されるとは。この奇跡、玉圓尼とて思いもせずに。
旅立や 稲荷背にしょふ 峠越え
五月の空に 狐雲浮く
大和の峠を越える玉圓尼の肩に確り寄り添う白狐、そのお姿が五月の空の白雲となって、玉圓尼にどこまでもどこまでも付いて行きました。
いざ付かん 半田の港の 賑わいに
白狐の霊ぞ 尻尾で隠す
半田の港に着きました。又、稲荷を置いてゆけと言われても困ります。又、眼力ある人に狐が背に付いていると言われても困ります。白旗稲荷の大明神は、ふさふさの太い尻尾をピンと真っ直ぐ立てました。もはや姿は誰にも見えません。玉圓尼を思う大明神の優しい思いやり、尼さんだけの一人旅に見えました。
成田かや 海老屋の不動 運ばれて
明神力の 益ます増して
尾張名古屋の地蔵寺にご到着の玉圓尼、ほどなく時代は明治の時代、文明開化となりました。そこへ海老屋の山本□和吉の、お不動さん。うんこらせっと運ばれてドンと鎮座ましました。恐らく成田不動でございましょうか。これで白旗稲荷の神通力も増す□増して、枡より溢れる御霊力。
理不尽な 廃藩置県の 悪政に
明神力を 今また見せん
廃藩置県のその時に、地蔵堂の土地まで召上げられた。何と理不尽な事でしょう。白旗稲荷、どうかどうかお力を。この七首の歌は、地蔵寺守護神、白旗稲荷の歴史をも語ります。稲荷の呪法「御玉転がし」で、六世玉圓尼和尚詠みし歌を聞き取りましたが、今回は確り七首まで書き留めました。
稲荷の呪法「御玉(みたま)転がし」は、平安の超人、安倍晴明や弘法大師がその修行中に考案したものとも言われますが、何れにせよ先人の残した文行を、一行二行その上から筆で準えれば、後の続きは自然出てくると云う摩訶不思議なる呪法であります。
昔は「御玉転玉(みたまてんぎょく)」の術とも言われた霊狐の呪法でありますが、今、病み上がりの自分にとって、昔のように出来るとは到底思えなかったが、恐る恐る行じてみれば、これ程に上手く出来るとは、唯唯驚くばかりでございます。
その後、体は小刻みに震えるばかりで暫く何も出来なかったが、熟つら考えるに、深草、最上、白旗稲荷と三狐の霊の御力を戴き、それ故の事の結果と感じ入る次第であります。最早これなるは白旗稲荷の霊験であり驚くばかりでございます。
思えるに平成十二年、病に伏して後、我が霊力の低下如何ともしがたく、思い悩みておりましたが、本年六月、十世戒心宗賢尼和尚より、地蔵寺縁起書の作成と世代記の活字化を御下命くだされました。その機を縁に我が霊力も嘗ての力が蘇るような気が致して参りました。
追記
大切な事を見過ごしておりました。玉圓尼様の七首の歌に、お稲荷様が隠れていたのです。驚きました。それぞれの歌の、最初の文字を七つ並べてみましょう。
知らしめす
襤褸なる
礑と見た
旅立ちや
いざ付かん
成田かや
理不尽な
このようになります。一字づつ横読み致しますと、なんとそこには「しらはたいなり」の七文字が出現致しました。更にこうも読めます。襤褸(ボロ)と言う漢語が使用されております。ここから各行の最後の言葉を詠み拾うとすれば、こうなります。
歌に詠む 七
白き玉石 一
おん奇跡 五
思いもせずに 二
狐雲浮く 三 ※三は三文字より上を見よとの仰せでした。
尻尾で隠す 四
益ます増して ※増すばかりで一文字も取る事は無し
今また見せん 六
一より詠み下してみましょう。
玉石に 狐隠すや おん奇跡
今また見せん 歌に詠むとて
とこんな歌となりました。歌文字下の番号は「御玉転がし」秘行の数字、白狐の尻尾が指し示す。ころころころころ転がって、右に左に左に右に不思議な動きでございます。くるくるくるくる目も回る、ときます。まあ、こんな訳でして、歌意は大和に置いて来た、白い玉石にも稲荷の霊力を入魂した。
その奇跡を歌に詠んでお見せ致そうぞ、との意味合いに取れましょう。全く摩訶不思議なる霊歌と申せます。最後に某の愚作の一首で締めまして終りと致します。これには、何の霊力もござらねば案心してお読み下されませ。
玉圓尼 七首の歌を 並ぶれば
稲荷の姿 そこにかしこに
平成十七年乙酉七月七日 瑠須庵

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知らしめす 白旗稲荷の 呪法とは
ハタと飛び交い 歌に詠む
稲荷の呪法といえば「御玉転がし」白旗稲荷の御神号は、しら鳥がハタハタと舞い飛び歌を詠みて、その霊力と白旗の謂れを知らしめすと言ふ。
襤褸なる 纏いし衣の在の衆
残りし物は 白き玉石
襤褸(らんる)とは漢語でボロの意と聞く。ボロを纏った村人ですが、残ったお宝は白き稲荷の御宝玉、有難や有難や
礑(はた)と見た 大明神の おん奇跡
玉圓尼とて 思いもせずに
次々と起きる稲荷大明神の奇跡。しかし明治四十五年の火災で玉圓尼の詠みし歌帖も焼失した。その歌が今またここに再現されるとは。この奇跡、玉圓尼とて思いもせずに。
旅立や 稲荷背にしょふ 峠越え
五月の空に 狐雲浮く
大和の峠を越える玉圓尼の肩に確り寄り添う白狐、そのお姿が五月の空の白雲となって、玉圓尼にどこまでもどこまでも付いて行きました。
いざ付かん 半田の港の 賑わいに
白狐の霊ぞ 尻尾で隠す
半田の港に着きました。又、稲荷を置いてゆけと言われても困ります。又、眼力ある人に狐が背に付いていると言われても困ります。白旗稲荷の大明神は、ふさふさの太い尻尾をピンと真っ直ぐ立てました。もはや姿は誰にも見えません。玉圓尼を思う大明神の優しい思いやり、尼さんだけの一人旅に見えました。
成田かや 海老屋の不動 運ばれて
明神力の 益ます増して
尾張名古屋の地蔵寺にご到着の玉圓尼、ほどなく時代は明治の時代、文明開化となりました。そこへ海老屋の山本□和吉の、お不動さん。うんこらせっと運ばれてドンと鎮座ましました。恐らく成田不動でございましょうか。これで白旗稲荷の神通力も増す□増して、枡より溢れる御霊力。
理不尽な 廃藩置県の 悪政に
明神力を 今また見せん
廃藩置県のその時に、地蔵堂の土地まで召上げられた。何と理不尽な事でしょう。白旗稲荷、どうかどうかお力を。この七首の歌は、地蔵寺守護神、白旗稲荷の歴史をも語ります。稲荷の呪法「御玉転がし」で、六世玉圓尼和尚詠みし歌を聞き取りましたが、今回は確り七首まで書き留めました。
稲荷の呪法「御玉(みたま)転がし」は、平安の超人、安倍晴明や弘法大師がその修行中に考案したものとも言われますが、何れにせよ先人の残した文行を、一行二行その上から筆で準えれば、後の続きは自然出てくると云う摩訶不思議なる呪法であります。
昔は「御玉転玉(みたまてんぎょく)」の術とも言われた霊狐の呪法でありますが、今、病み上がりの自分にとって、昔のように出来るとは到底思えなかったが、恐る恐る行じてみれば、これ程に上手く出来るとは、唯唯驚くばかりでございます。
その後、体は小刻みに震えるばかりで暫く何も出来なかったが、熟つら考えるに、深草、最上、白旗稲荷と三狐の霊の御力を戴き、それ故の事の結果と感じ入る次第であります。最早これなるは白旗稲荷の霊験であり驚くばかりでございます。
思えるに平成十二年、病に伏して後、我が霊力の低下如何ともしがたく、思い悩みておりましたが、本年六月、十世戒心宗賢尼和尚より、地蔵寺縁起書の作成と世代記の活字化を御下命くだされました。その機を縁に我が霊力も嘗ての力が蘇るような気が致して参りました。
追記
大切な事を見過ごしておりました。玉圓尼様の七首の歌に、お稲荷様が隠れていたのです。驚きました。それぞれの歌の、最初の文字を七つ並べてみましょう。
知らしめす
襤褸なる
礑と見た
旅立ちや
いざ付かん
成田かや
理不尽な
このようになります。一字づつ横読み致しますと、なんとそこには「しらはたいなり」の七文字が出現致しました。更にこうも読めます。襤褸(ボロ)と言う漢語が使用されております。ここから各行の最後の言葉を詠み拾うとすれば、こうなります。
歌に詠む 七
白き玉石 一
おん奇跡 五
思いもせずに 二
狐雲浮く 三 ※三は三文字より上を見よとの仰せでした。
尻尾で隠す 四
益ます増して ※増すばかりで一文字も取る事は無し
今また見せん 六
一より詠み下してみましょう。
玉石に 狐隠すや おん奇跡
今また見せん 歌に詠むとて
とこんな歌となりました。歌文字下の番号は「御玉転がし」秘行の数字、白狐の尻尾が指し示す。ころころころころ転がって、右に左に左に右に不思議な動きでございます。くるくるくるくる目も回る、ときます。まあ、こんな訳でして、歌意は大和に置いて来た、白い玉石にも稲荷の霊力を入魂した。
その奇跡を歌に詠んでお見せ致そうぞ、との意味合いに取れましょう。全く摩訶不思議なる霊歌と申せます。最後に某の愚作の一首で締めまして終りと致します。これには、何の霊力もござらねば案心してお読み下されませ。
玉圓尼 七首の歌を 並ぶれば
稲荷の姿 そこにかしこに
平成十七年乙酉七月七日 瑠須庵

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2021-05-15
◆地蔵寺釈厄外伝記について その6
○ 地蔵寺年代記
開基 源明厚淳尼和尚 安永五年二月十九日遷化 (一七七六年)
開基厚淳尼は濃洲の人で、(森太兵衛家二代目の人と伝ふ)深く仏教を渇仰せられ、出家得度の後諸国の寺社を巡拝、特に四国八十八箇所霊場に巡礼されたこと八十八回に及びました。厚淳尼の所有地六畝八歩の現在の所有地に、津島の興福寺から一堂宇を寛保元年七月二十六日(一七四一年)に移築いたし、尼の護持仏「地蔵菩薩」を本尊に安置され、長栄寺八世、魯堂詳伯大和尚を請拝されて、御開山となされました。
※詳白大和尚は宝永七年(一七一〇年)八月十一日、長栄寺に住職。明和六年(一七六九年)二月十七日寂
二世 戒圓順教尼和尚 文化十二年八月廿五日遷化
三世 心空物元尼和尚 寛政九年九月十二日遷化
四世 鶴巖齢寿尼和尚 天保十一年二月十九日遷化
五世 保錦寿教尼和尚 文久元年九月八日遷化
六世 戒心玉圓尼和尚 明治十七年八月廿一日遷化
七世 祥山芳瑞尼和尚 大正十二年十月廿九日遷化
八世 即応戒心尼和尚 明治四十年八月廿一日遷化(芳瑞尼の在世中に遷化なさる)
当寺は草創の時代から、志水甲斐守並びに石河主文氏の帰依により、年々甚大な浄財を寄進戴いていましたが、明治維新の廃藩にあたり、浄財が無くなるのみならず、地蔵堂の土地所有権まで召上げられ貧窮の極みに達しました。八世即応尼は、七世芳瑞師尼とはかり、明治丗六年総代諸氏の御協力のもと地蔵堂保存会を設立。毎月の積立金を基礎として十方檀邦の浄財を得て、旧寺地の内二百五十有余坪を買い戻し、併せて諸堂の大修復をなし面目を一新せられました。
九世 賢瑞辨英尼和尚 昭和廿六年二月十日遷化
九世賢瑞辨英尼堂守となられて数年後の明治四十五年一月、近隣の火災に類焼の難に会い伽藍の大半は焼失。誠に不幸の極みでした。
火災保険の下付けで残余の堂を修復なされたとはいえ、堂宇の面目保たれず遺憾の念に奮起なされ、総代森太兵衛、宮田久兵衛、大岩米次郎、澤田濱次郎、並びに建築委員、森田清助諸氏の御協力を得て十万信徒の喜拾に預かり、本堂(間口七間、奥行五間半)庫裡(間口三間、奥行七間余)の大殿堂を新築落成。
大正三年秋、本堂再建、入佛供養大法會の盛典を修行致されました。爾来、近隣の大堂庵として宗風を宣揚。橋本恵光老宗師の眼蔵会等、信徒の修行道場として日夜精進されました。
第二次世界大戦勃発いたすに及び、名古屋市の大半は空襲により一大焼野原と化し、当庵も不幸昭和廿年五月十四日午前九時焼夷弾中に全堂焼失。見る影もなく辨英尼の辛苦も一朝の露となりました。
戦い収まるや急遽燃土を盛り、ささやかなる仮堂を建てやうやく御本尊延命地蔵を奉安。守護神白旗大明神の鎮守堂も信徒方の一大労力に預かり新築落成され信仰をあおいでいられます。
十世 戒心宗賢尼和尚
昭和廿六年四月五日、師尼の遺意に従い現、宗賢尼和尚十世として住職に任ぜられ、いよいよ諸堂再建の熱意を傾注いたし今日に至ります。(現在十世 戒心宗賢尼和尚は遷化され、11代目となります。地蔵寺は初代から10代目まで尼様がご住職をなされていました。)
五月そら けふも揺れるは 白旗の ハタ、ハタ、ハタと 心躍るや
詠み人しらず 合掌

※参考文献
地蔵寺縁起書
地蔵寺世代記 鵜飼宗賢
八百万の神々 戸部民夫著 新紀元社
日本の神々 多彩な民族神たち 戸部民夫著 新紀元社
愛知の神社 愛知県郷土資料刊行会
深草稲荷 深草稲荷保勝会
紅葉屋呉服店はこちらまで
開基 源明厚淳尼和尚 安永五年二月十九日遷化 (一七七六年)
開基厚淳尼は濃洲の人で、(森太兵衛家二代目の人と伝ふ)深く仏教を渇仰せられ、出家得度の後諸国の寺社を巡拝、特に四国八十八箇所霊場に巡礼されたこと八十八回に及びました。厚淳尼の所有地六畝八歩の現在の所有地に、津島の興福寺から一堂宇を寛保元年七月二十六日(一七四一年)に移築いたし、尼の護持仏「地蔵菩薩」を本尊に安置され、長栄寺八世、魯堂詳伯大和尚を請拝されて、御開山となされました。
※詳白大和尚は宝永七年(一七一〇年)八月十一日、長栄寺に住職。明和六年(一七六九年)二月十七日寂
二世 戒圓順教尼和尚 文化十二年八月廿五日遷化
三世 心空物元尼和尚 寛政九年九月十二日遷化
四世 鶴巖齢寿尼和尚 天保十一年二月十九日遷化
五世 保錦寿教尼和尚 文久元年九月八日遷化
六世 戒心玉圓尼和尚 明治十七年八月廿一日遷化
七世 祥山芳瑞尼和尚 大正十二年十月廿九日遷化
八世 即応戒心尼和尚 明治四十年八月廿一日遷化(芳瑞尼の在世中に遷化なさる)
当寺は草創の時代から、志水甲斐守並びに石河主文氏の帰依により、年々甚大な浄財を寄進戴いていましたが、明治維新の廃藩にあたり、浄財が無くなるのみならず、地蔵堂の土地所有権まで召上げられ貧窮の極みに達しました。八世即応尼は、七世芳瑞師尼とはかり、明治丗六年総代諸氏の御協力のもと地蔵堂保存会を設立。毎月の積立金を基礎として十方檀邦の浄財を得て、旧寺地の内二百五十有余坪を買い戻し、併せて諸堂の大修復をなし面目を一新せられました。
九世 賢瑞辨英尼和尚 昭和廿六年二月十日遷化
九世賢瑞辨英尼堂守となられて数年後の明治四十五年一月、近隣の火災に類焼の難に会い伽藍の大半は焼失。誠に不幸の極みでした。
火災保険の下付けで残余の堂を修復なされたとはいえ、堂宇の面目保たれず遺憾の念に奮起なされ、総代森太兵衛、宮田久兵衛、大岩米次郎、澤田濱次郎、並びに建築委員、森田清助諸氏の御協力を得て十万信徒の喜拾に預かり、本堂(間口七間、奥行五間半)庫裡(間口三間、奥行七間余)の大殿堂を新築落成。
大正三年秋、本堂再建、入佛供養大法會の盛典を修行致されました。爾来、近隣の大堂庵として宗風を宣揚。橋本恵光老宗師の眼蔵会等、信徒の修行道場として日夜精進されました。
第二次世界大戦勃発いたすに及び、名古屋市の大半は空襲により一大焼野原と化し、当庵も不幸昭和廿年五月十四日午前九時焼夷弾中に全堂焼失。見る影もなく辨英尼の辛苦も一朝の露となりました。
戦い収まるや急遽燃土を盛り、ささやかなる仮堂を建てやうやく御本尊延命地蔵を奉安。守護神白旗大明神の鎮守堂も信徒方の一大労力に預かり新築落成され信仰をあおいでいられます。
十世 戒心宗賢尼和尚
昭和廿六年四月五日、師尼の遺意に従い現、宗賢尼和尚十世として住職に任ぜられ、いよいよ諸堂再建の熱意を傾注いたし今日に至ります。(現在十世 戒心宗賢尼和尚は遷化され、11代目となります。地蔵寺は初代から10代目まで尼様がご住職をなされていました。)
五月そら けふも揺れるは 白旗の ハタ、ハタ、ハタと 心躍るや
詠み人しらず 合掌

※参考文献
地蔵寺縁起書
地蔵寺世代記 鵜飼宗賢
八百万の神々 戸部民夫著 新紀元社
日本の神々 多彩な民族神たち 戸部民夫著 新紀元社
愛知の神社 愛知県郷土資料刊行会
深草稲荷 深草稲荷保勝会
紅葉屋呉服店はこちらまで
2021-05-14
◆地蔵寺釈厄外伝記について その5
今回は地蔵寺縁起書の続き、白旗稲荷についての記述部分を御紹介致します。
○地蔵寺守護神、白旗稲荷と深草稲荷(伏見稲荷)のこと
白旗稲荷の縁起を知るにはまず、深草稲荷を知らねばなりません。深草(伏見)稲荷と申せば、日本中知らぬ者無しの稲荷の総本山、どなたも白狐の姿を思い浮かべます。しかし、これは稲荷の霊力を知らしめす為の仮の姿であって、御神体は別に確りと存在致します。御祭神は、五柱神、
宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)
佐田彦大神 (さたひこのおおかみ)
大宮能売大神 (おおみやのめのおおかみ)
田中大神 (たなかのおおかみ)
四大神 (しのおおかみ)
となり、宇迦之御魂大神は、古事記によれば、須佐之男命(すさのおのみこと)と市比売命(いちひめのみこと)の二神の子として生まれ、宇迦は倉稲(うが)あるいは食(うけ)とか御饌都(みけつ)とか言われるが、何れも食物であり、ウカノミタマとは稲玉そのものと解釈できる。
御神号は「伊奈利」であり、最古の文献と言われる山城国風土記や扶桑略記にこの「伊奈利」の文字を見出す。その後、稲が成るが稲荷に転化した。
白旗稲荷の縁起を語るに、この「山城国風土記」を見過ごす訳には行かない。この風土記に「餅の的」という話がある。古代、豪族の秦氏の先祖に、伊呂具と言う男があった。
この伊呂具、こともあろうに、鏡餅を的に弓の射比べをした。すると、誰ぞの弓が見事に鏡餅を射抜いた。するとどうだ、鏡餅は白い鳥に変化し、ハタハタと飛んで行った。あまりの事に腰を抜かした者もあったが、皆、白い鳥を追った。
しら鳥は深草の山頂辺りに舞い降りた。翌年、その山の辺り一面に稲穂がたわわに実り、稲荷になったと云う。しら鳥がハタハタと舞い飛ぶ故事は、白旗すなわち伏見稲荷の象徴であり、古代豪族秦氏とも深い係りを持つ。
その後の伊呂具は、貧窮の日々が続き、失落し亡くなった。更に時が経ち、その末裔の一人が伏見稲荷社に許しを請い、結果、神の許しを得て、その後秦氏は永く繁栄したと云う。ここまで稿を進めれば、玉圓尼の、白鳥の歌の真意が見えてくる。
「しら鳥の ハタ、旗、秦と 飛び舞ひて 霊夢の稲荷 白旗とぞ言ふ」
白鳥とは、古事記を見ても、日本武尊がその最後に白鳥に変化して飛び去ったとあるように、古来より霊鳥は白い鳥と解釈されていた。その飛び交う羽音がハタ、ハタ、ハタと表現されています。
注目すべきは玉圓尼の歌にあるように、それは一字ずつ文字面を替えていると言う事です。最初はハタ、次は旗、これは白旗稲荷を表現し、最後は秦となり、これが稲荷の霊夢、白旗稲荷の御神号となり、今に伝えられた訳です。

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○地蔵寺守護神、白旗稲荷と深草稲荷(伏見稲荷)のこと
白旗稲荷の縁起を知るにはまず、深草稲荷を知らねばなりません。深草(伏見)稲荷と申せば、日本中知らぬ者無しの稲荷の総本山、どなたも白狐の姿を思い浮かべます。しかし、これは稲荷の霊力を知らしめす為の仮の姿であって、御神体は別に確りと存在致します。御祭神は、五柱神、
宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)
佐田彦大神 (さたひこのおおかみ)
大宮能売大神 (おおみやのめのおおかみ)
田中大神 (たなかのおおかみ)
四大神 (しのおおかみ)
となり、宇迦之御魂大神は、古事記によれば、須佐之男命(すさのおのみこと)と市比売命(いちひめのみこと)の二神の子として生まれ、宇迦は倉稲(うが)あるいは食(うけ)とか御饌都(みけつ)とか言われるが、何れも食物であり、ウカノミタマとは稲玉そのものと解釈できる。
御神号は「伊奈利」であり、最古の文献と言われる山城国風土記や扶桑略記にこの「伊奈利」の文字を見出す。その後、稲が成るが稲荷に転化した。
白旗稲荷の縁起を語るに、この「山城国風土記」を見過ごす訳には行かない。この風土記に「餅の的」という話がある。古代、豪族の秦氏の先祖に、伊呂具と言う男があった。
この伊呂具、こともあろうに、鏡餅を的に弓の射比べをした。すると、誰ぞの弓が見事に鏡餅を射抜いた。するとどうだ、鏡餅は白い鳥に変化し、ハタハタと飛んで行った。あまりの事に腰を抜かした者もあったが、皆、白い鳥を追った。
しら鳥は深草の山頂辺りに舞い降りた。翌年、その山の辺り一面に稲穂がたわわに実り、稲荷になったと云う。しら鳥がハタハタと舞い飛ぶ故事は、白旗すなわち伏見稲荷の象徴であり、古代豪族秦氏とも深い係りを持つ。
その後の伊呂具は、貧窮の日々が続き、失落し亡くなった。更に時が経ち、その末裔の一人が伏見稲荷社に許しを請い、結果、神の許しを得て、その後秦氏は永く繁栄したと云う。ここまで稿を進めれば、玉圓尼の、白鳥の歌の真意が見えてくる。
「しら鳥の ハタ、旗、秦と 飛び舞ひて 霊夢の稲荷 白旗とぞ言ふ」
白鳥とは、古事記を見ても、日本武尊がその最後に白鳥に変化して飛び去ったとあるように、古来より霊鳥は白い鳥と解釈されていた。その飛び交う羽音がハタ、ハタ、ハタと表現されています。
注目すべきは玉圓尼の歌にあるように、それは一字ずつ文字面を替えていると言う事です。最初はハタ、次は旗、これは白旗稲荷を表現し、最後は秦となり、これが稲荷の霊夢、白旗稲荷の御神号となり、今に伝えられた訳です。

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