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2020-05-22

◆津島神社 3  最終回

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福井県在住の、某密教寺院のご住職とご縁があり、昔興味深い話を聞いた。


そこのお寺のある地域の氏神様が〇〇〇社で、何でも一度も一般公開したことがない牛頭天王様の霊像があると言う。


話を聞き、ついつい興味が湧いたので


「その仏像の姿が分かる写真とか、ないですよね?」


と聞いたら、


「ありますよ」


とその仏像について載っていた本を見せてくれた。そのお姿は衝撃であった。私もその本を入手したが、印刷物のモノクロ写真と言えど、畏れ多くてとても自分のブログに上げることは出来ない。



豹(虎にも見えるが、ご子息に「豹尾神」という神様がいるので豹だと思う)に乗った半跏像で、腕が12本、三面の憤怒尊である。弘法大師が建立した東寺に伝来していたとしてもおかしくない、見事な密教像だと思った。現存している牛頭天王像と比べても、類例がない御姿で、おそらく平安初期頃はあるとのお話だった。
 
 
この福井県の〇〇〇社に残る、秘仏「牛頭天王像」は、現在確認されている牛頭天王像の中で最も古い可能性があり、ご住職によれば、昔、東京の国立博物館の研究者達がこちらの神社へ訪れ、その像を見て「これは重要文化財クラスの尊像なので、ぜひ国に申請しましょう」という話になったと言う。
 
 
話を聞いていた神社側も喜んでいたそうだが、研究者側が


「重要文化財に指定するには、まず専門機関にこの像を移す必要が・・・」


と話を切り出したら、神社側は


「ならば結構です。先代、先々代からこの像は何があっても、この場所から動かしてはならないと聞いているので」


と一蹴したらしい。
 
 
確かに、並大抵の霊像ではないと、一目で分からせる説得力があった。「写真を撮った人は大丈夫だろうか?」と心配になるような牛頭天王像だ。

 
福井の霊像が平安初期だとすると、奈良時代に神仏習合の流れが出た際、かなり早い段階で、牛頭天王様は仏教、その中でも真言密教に取り入れたられたと言える。
 
 
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 津島神社の端っこ、境内の一角に薬師如来を祀るお堂があった。


おそらくかつては津島神社の別の場所にあったであろう、津島神社の神宮寺のご本尊だ。
 
 
牛頭天王様は仏教に取り入れられた際、薬師如来の本地仏とされた(津島神社の縁起)。


その昔、津島の地で疫病が流行り、弘法大師が人々が苦しむのを見て薬師如来を祀ったと云う。病を齎す恐るべき神、牛頭天王様と、心や体の病を治す薬師如来を同体としたのだ。納得である。(あるいは病封じとして薬師如来を祀ったか)


そう言えば、福井県の〇〇〇社にも平安期の薬師如来像が祀られていた。


津島神社には、提灯を沢山飾った船を渡らせるという有名な祭事がある。600年も前からあるお祭りだが、その由来は諸説あるらしい。これだというのがなさそうである。語り継がれる内、様々な要素が取り込まれていくのはよくある話だが、神輿ともとれる船を川に浮かべて流すというのは、やはり大陸からこの神はやってきたということでは?と思う。
 

津島神社は、「この地に元々津島社があり、それが牛頭天王となり、今は須佐之男命を祀る」とあるが、最初にあった津島社は、元々が須佐之男命ではなく、地元の何かの神ではなかったのかと思う。そこに渡来人が船で渡り、牛頭天王様を祀る。


やがて仏教が伝来し、神仏習合の流れで神道の中でも最も荒ぶる神様の一柱、須佐之男命と習合したのでは?


須佐之男命が出雲やその周辺で祀られるのは普通にあると思うが、出雲から遠く離れた愛知県で、これだけ大きく祀られというのはやはり疑問だ。


津島神社は、牛頭天王様が先で須佐之男命が後から習合したという方がしっくりくる。


そう言えば、日本最古の牛頭天王像が祀られる神社が、日本海側の福井県というのも頷ける。


今回、コロナ騒動を受けて、「こういう時は牛頭天王様へお参りだ!」と何年かぶりに津島神社に参拝に出かけたが、思った以上に牛頭天王様の痕跡は無かった。
 
 
牛頭天王様も、人間の都合で祀られ、人間の都合で外されたのを呆れているだろう。むしろ機嫌が大分悪いのでは?と思えた。お参りする際、コロナのことは(個人的に)とても頼めなかった。
 
 
参拝を終え、明治期の廃仏毀釈の運動は相当酷かったんだなぁというのが、再認識出来ました。



参考文献 日本の神々 神徳由来事典   三橋健  学研


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2020-05-20

◆津島神社 2

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牛頭天王様とは、神道には出てこない神様だ。元を辿ると仏教でもない。(畏れ多いので以後「様」をつけます)


陰陽道由来の謎の多い神様である。


津島神社に牛頭天王様の痕跡を探しに行ったが、結論から言えば痕跡は殆ど無かった。宝物館が閉館していたのでその中に牛頭天王様に関する資料があるかどうかは分からない。ひょっとしたら何か残っているかも。


末社も一つ一つお参りしたが、社の前に設けられた立看板の説明を見るに、牛頭天王様の名前や息子さん達(八王子神)の名前も無かった。

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ただ、上の画像の「荒御魂社」の解説文の最後の方に「元は蛇毒神社と称し、八岐大蛇の御霊を祭っていた」とあった。「蛇毒」との表記を見て思い出したが、確か牛頭天王様の御眷属に蛇毒気神という神様がいた。だとすると、八岐大蛇とは関係がない。


だいたい須佐之男命と、須佐之男命が滅ぼした八岐大蛇を一緒に祀るというのは何かおかしい。これも明治時代に御祀神が入れ替わったのだろう。毒の蛇という漢字から、悪い蛇、八岐大蛇となったか。

境内の各社の解説文を一つ一つ読むと、気になる個所がいくつかあった。

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「病気」という一括りで御利益があるというより、麻疹とか当時の流行り病に特化したお社だ。この津島神社は、やはり様々な病気に御利益があるとされたのだろう。牛頭天王様が御祀神であるなら納得である。


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神道の神様には、優しい部分の働き「和魂(にぎみたま)」と、怖い部分の働き「荒魂(あらみたま)」というのがあるのは知っていたが、他にも二つの働きがあるのを津島神社で教えて頂いた。幸魂と奇魂だ。

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こちらの社の看板に、牛頭天王様の痕跡が少しあった。この社はかつては「蘇民社」と言ったそう。蘇民とは蘇民将来、人の名である。牛頭天王が村一つ滅ぼした際、唯一気に入って生かした人間が蘇民(とその家族)だ。


そもそも牛頭天王様とはどんな神様なのか?


元々は疫病神の王様と言うか、私の言葉では上手く表現できない超きつい荒ぶる神様だ。
(過去にブログに書いています。詳しくはこちらもどうぞ)


備後の国風土記という奈良時代に書かれた書物に、牛頭天王様の話が出ている。



◎牛頭天王縁起

その昔、北の海にいた武塔天神(むとうてんじん:牛頭天王様の別名)という疫病神が、南海の神の娘のもとに求婚に出かけた。その途中に日が暮れて来たので、武塔天神は人の姿になり、将来という名の兄弟に一夜の宿を求めた。

兄の蘇民将来(そみんしょうらい)は貧しく、弟の巨旦将来(こたんしょうらい)は裕福であった。武塔天神をもてなしたのは兄の蘇民将来だった。弟の巨旦将来は武塔天神の身なりをみて拒絶したのである。

武塔天神が宿を後にして数年後、結婚された武塔天神は八人の子を引き連れ、再び蘇民将来の家へ訪れた。何でもあの時宿をかしてくれた蘇民にお礼がしたいとのこと・・・。

武塔天神は蘇民に聞いた。

「お前の子孫はおるか?」

「妻と娘がおります」

と答える蘇民。武塔天神は、

「茅の輪を(家族全員に)腰につけさせよ」

と言った。その夜のこと、突如疫病が村を襲った。家の中でじっとしていた蘇民達。外からは悲鳴が聞こえた。翌朝、様子を確かめようと外に出た蘇民一家が目にしたものは累々と横たわる死体であった。

蘇民一家を除き、村人、家畜に至るまで全滅であった。

この時、武塔天神は「自分は速須佐之男神(はやすさのおのかみ)である」と正体を明かし、もし疫病(厄神)がまた襲ってきたら、いつであれ「蘇民将来の子孫」と唱えて腰に茅の輪をつければ、疫病から免れるであろうと教えたと云う。




気にいらなかったのは、宿を断った巨旦将来一人であるにもかかわらず、自分を泊めた蘇民将来一家以外を全滅させるという、恐るべき神様だ。一気に全て殺すというのは疫病を意味しているのだろう。


日本古来の神でもなければ、仏教にもいなかった大陸から渡って来た神、牛頭天王様。


時の僧侶らはその荒ぶる神、牛頭天王様を後に仏教に取り入れた。


人々を苦しめる病を何とかする為に、病の大元と考えられた神様を、仏として祀ってしまおうと思ったのだろう。



次回に続く・・・。
2020-05-19

◆津島神社 

日本のコロナ騒動も、ようやく落ち着きかけてきた。


しかし、世界中の人々に恐怖を植え付けたと思うので、元のような経済状況になるにはまだまだ時間がかかるだろう。


ゴールデンウィークに入る少し前、新型コロナウィルス=疫病に強いと言われる神様をお参りに行こうとということで、愛知県津島市の「津島神社」へ参拝に出かけた。現在の御祭神は「須佐之男命」である。


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津島神社のHPにも、疫病封じのご利益があるとある。コロナ騒動中は毎日ご祈祷をあげているようだ。

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◆津島神社の縁起(HPより抜粋)

津島神社の創建は欽明天皇元年(540年)で、当初は「津島社」と呼ばれていましたが、奈良時代仏教の伝来と共に「神仏習合」と言う考えが生まれ、御祭神「建速須佐男之命」は「牛頭天王」に替わり、社名も「津島牛頭天王社」と呼ばれるようになり江戸時代まで続きました。  明治の神仏分離により「津島神社」に改められました


奈良時代に「疫病」が起こり、平安時代には全国に広まり、時の朝廷は「疫病」を鎮める為、京都神泉苑に於いて全国66の国の数の鉾を立て悪疫を鎮める「御霊会」が行われ、これが現在の京都八坂神社の「祇園祭」のはじまりです。  

全国天王信仰(全国約3,000社)の総本社津島神社では、当時の神職が琵琶湖の東岸から鎌倉辺りまで、各地の有力者の家に一週間ほど泊まり、祈祷やお札の配布を行い、疫病除けの「天王信仰」を広め、大神様の御神徳に感謝して「天王祭」が行われるようになりました。


またこうもあった。


欽明天皇元年(540年)に西国対馬より大神がご来臨なられたのが始まりとされ、その後弘仁元年(810年)に神階正一位と日本総社の号を賜り、一条天皇の正暦年間に天王の号を賜りました。


津島とは対馬のことであるのかもしれない。須佐之男命が大陸に渡ってまた日本に帰ってきたという説もある。対馬からやってきた渡来人が須佐之男命を祀ったのか。


創建は540年。その当時は津島社と呼ばれていたという。それが「奈良時代仏教の伝来と共に『神仏習合』と言う考えが生まれ、御祭神『建速須佐男之命』は『牛頭天王』に替わり、社名も『津島牛頭天王社』と呼ばれるようになり江戸時代まで続きました」とある。


津島社が神仏習合の影響で、牛頭天王が主になって恐らく1000年以上信仰が続き、明治になって須佐之男命に変わった。圧倒的に須佐之男命として祀られるより、牛頭天王時代が長かったと分かる。


明治になって神仏を分けてしまった。明治時代には廃仏毀釈の運動が激しかったので、多くのお寺が壊され、仏像が捨てられたりした。お寺にとっては受難であったが、神社も大幅にてこ入れされる場合があった。
 
 
例えばその地域独特の、記紀神話に出てこない地元密着型の神様(先祖神)の場合、記紀神話の有名な神様に御祀神が変わってしまうことが多かった。
 
 
その御祭神が入れ替えられたケースで、もっとも酷かった例が牛頭天王だと思う。全国3000社とあるので、その全てが須佐之男命に、ある時一斉に変わってしまったのだ。それは時の天皇陛下と同じ発音の、「天王」の名を持つこと、そして天皇家とは何の関係もない神様だったことが問題になったからだろう。


愛知県には、牛頭天王を祀っていたという神社は多い。また名古屋城下町には、かつて一般庶民の家の屋根に「屋根神様」という、家のひさしに小さな祠を設けることが多かった。この屋根神様も、調べてみたらほぼ90%以上が牛頭天王であった。


また、名古屋城築城以前の、名古屋最古の地図(尾張村:現名古屋場周辺)を見るに、そこには「天王社」の記述が確認できる。


あちこちの氏神として、家の守り神として、一般庶民の一番身近にいた神様が牛頭天王なのである。
 

津島神社の参拝は、今回で2回目だ。一人で来るのは初めてである。


参拝に来た目的は、疫病には無類の強さを発揮する牛頭天王様へのお参り(コロナなんとかしてください)と、少しでも津島神社に牛頭天王の痕跡が残っていないかの二つだ。一人で来たのは、じっくりと観察出来るからである。


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長くなったので、続きは次回。足を使って色々見て回りました・・・。



続く・・・
プロフィール

紅葉屋呉服店:店主 加藤大幾

Author:紅葉屋呉服店:店主 加藤大幾
名古屋市内で呉服中心で古美術も扱っているお店をやっています。

主に趣味のお寺と神社の参拝を中心としたブログです。

◆紅葉屋呉服店
momijiyagohukuten.com

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