2020-03-28
◆鬼のお話 第9回 昔話の桃太郎
前回の続きです。長くなってしまいましたが、今回でとりあえず桃太郎と温羅のお話はおしまいです。
最後に家にあった桃太郎の絵のお話と、昔話と吉備の国について考えてみたい。
まずは変わった桃太郎の画がありましたのでご紹介します。
この絵、昔父が入院していた時、同部屋にいた手彫りの刺青師のAさんという方に頂いたもの。刺青のデザイン画です。画いたのはAさんですが、聞けば元の絵は古いものであったそう。

注目して頂きたいのが、桃太郎が踏みつけているバラバラに折れた刀だ。
画像の折れた刀を踏みつける桃太郎の絵は、こんな昔話からデザインされた。
それは「桃太郎と鬼が刀を交換した。桃太郎は弱い刀を、鬼は強い刀を出した」というものだ。
これから一戦交えるもの同士がわざわざ武器を交換するとは思えない。この背景には、まず桃太郎を迎え入れた鬼と、巧妙な計略で鬼に近づいた桃太郎の図式が浮かんでくる。
桃太郎の昔話には様々なパターンがあるが、明治より前の桃太郎は鬼ノ城に攻め入る動悸が、ただ「宝を取りにいく」事で、「鬼が悪さをするので成敗に」という件が追加されたのは明治以後、学校教育に使われるようになってからだった。また、犬、猿、雉も古い昔話はそれぞれきちんとした名前があった。
こんな絵があるのも、昔から温羅は鬼ではないと考えていた人がいたのだろう。
吉備という国は現在でも謎の多い国らしい。
3世紀から4世紀にかけてヤマトには出雲や吉備、北陸、東海の勢力が集まり、更に北九州がやってきて王国が誕生した。その中で、最も強い影響を及ぼしたのが吉備であった。
前方後円墳(権力者の象徴)の原型が、すでに弥生時代後期の吉備で誕生していた可能性が高いことや、ヤマトに集まった土器の中で、吉備の土器だけが生活臭の無い、祭祀に用いる特殊なものだった。他の国よりも進んだ考え方があったのだ。
他よりも進んだ考え方、文化、技術があった故に攻撃されたのではと思う。
昔、吉備津神社へ参拝に行ったことがある。
大変立派な神社だ。
その売店で魔除けの土鈴を売っていたので購入した。

この土鈴、今も受け継がれている釜鳴神事を行う建物、温羅の首が埋まっていると云う、鉄の窯の下にある灰を用いて焼成したものだ。
人を魔物から守る存在は、吉備津彦命ではなく討ち滅ぼされた鬼なのである。何とも地元の人達の叫びを感じる土鈴だ。
鬼というのは怖い存在で、実際そういう鬼も多いとは思うが、温羅のように地元の人達に愛されている鬼もいる。
温羅という鬼が非道な悪鬼だったのか、それとも偉大な英雄が鬼とされたのか。
真相は分かりませんが、個人的には温羅は本来なら偉大な神として祀られるべき英雄だったのでは?と思います。
桃太郎のお話はこれにて終わりです。
参考文献 神社仏閣に隠された古代史の謎 関 祐二 著 徳間書店
※紅葉屋呉服店はこちらまで
最後に家にあった桃太郎の絵のお話と、昔話と吉備の国について考えてみたい。
まずは変わった桃太郎の画がありましたのでご紹介します。
この絵、昔父が入院していた時、同部屋にいた手彫りの刺青師のAさんという方に頂いたもの。刺青のデザイン画です。画いたのはAさんですが、聞けば元の絵は古いものであったそう。

注目して頂きたいのが、桃太郎が踏みつけているバラバラに折れた刀だ。
画像の折れた刀を踏みつける桃太郎の絵は、こんな昔話からデザインされた。
それは「桃太郎と鬼が刀を交換した。桃太郎は弱い刀を、鬼は強い刀を出した」というものだ。
これから一戦交えるもの同士がわざわざ武器を交換するとは思えない。この背景には、まず桃太郎を迎え入れた鬼と、巧妙な計略で鬼に近づいた桃太郎の図式が浮かんでくる。
桃太郎の昔話には様々なパターンがあるが、明治より前の桃太郎は鬼ノ城に攻め入る動悸が、ただ「宝を取りにいく」事で、「鬼が悪さをするので成敗に」という件が追加されたのは明治以後、学校教育に使われるようになってからだった。また、犬、猿、雉も古い昔話はそれぞれきちんとした名前があった。
こんな絵があるのも、昔から温羅は鬼ではないと考えていた人がいたのだろう。
吉備という国は現在でも謎の多い国らしい。
3世紀から4世紀にかけてヤマトには出雲や吉備、北陸、東海の勢力が集まり、更に北九州がやってきて王国が誕生した。その中で、最も強い影響を及ぼしたのが吉備であった。
前方後円墳(権力者の象徴)の原型が、すでに弥生時代後期の吉備で誕生していた可能性が高いことや、ヤマトに集まった土器の中で、吉備の土器だけが生活臭の無い、祭祀に用いる特殊なものだった。他の国よりも進んだ考え方があったのだ。
他よりも進んだ考え方、文化、技術があった故に攻撃されたのではと思う。
昔、吉備津神社へ参拝に行ったことがある。
大変立派な神社だ。
その売店で魔除けの土鈴を売っていたので購入した。

この土鈴、今も受け継がれている釜鳴神事を行う建物、温羅の首が埋まっていると云う、鉄の窯の下にある灰を用いて焼成したものだ。
人を魔物から守る存在は、吉備津彦命ではなく討ち滅ぼされた鬼なのである。何とも地元の人達の叫びを感じる土鈴だ。
鬼というのは怖い存在で、実際そういう鬼も多いとは思うが、温羅のように地元の人達に愛されている鬼もいる。
温羅という鬼が非道な悪鬼だったのか、それとも偉大な英雄が鬼とされたのか。
真相は分かりませんが、個人的には温羅は本来なら偉大な神として祀られるべき英雄だったのでは?と思います。
桃太郎のお話はこれにて終わりです。
参考文献 神社仏閣に隠された古代史の謎 関 祐二 著 徳間書店
※紅葉屋呉服店はこちらまで
スポンサーサイト
2020-03-27
◆鬼のお話 第8回 温羅とは鬼だったのか?
吉備を平定した五十狭芹彦命は吉備津彦命と名前が変わり、現在は吉備津神社の御祀神となっている。
吉備津神社には有名な神事、「鳴釜神事」というものが残っている。
これは実は温羅に関係している神事である。
前回の桃太郎伝説の最後の個所、赤文字部分を考えてみる。
それから13年の月日が経ったが未だに唸り声は続いていた。ほとほと参った五十狭芹彦命だったが、ある日彼の夢に温羅が現れ、こう告げた。
「我が愛した阿曽女を連れてまいれ。阿曽女を持って我を祀るならば声も鎮まろう。そして釜で占うがよい。吉事の時、我の首は穏やかに鳴り、凶事の時は荒々しく鳴るであろう」
こうして、ともかく呼び出された阿曽女によって温羅が祀られるようになると、恐ろしい唸り声はパッタリと止んだ。永きに渡った戦いもようやく幕を降ろすことになった。仕事を終えた五十狭芹彦命は吉備津彦命と名を改め、吉備臣の祖先となった。吉備津彦は死後、吉備中山に埋葬されたと言う。
討たれ、さらし首となり、尚且つ犬に食われて釡の下に封じられた温羅。13年にも亘り祟り続けるも、最後には自ら祟る神になるのを止め、万人の為に神託を告げる存在になった。阿曽女というのが地域を差しているのか、あるいは温羅の最愛の女性が阿曽出身の女性だったのかは分からないが、祟る神を慰める、封じる役目が、霊力をもった女性であるということだろう。
温羅のケースの場合は、封じると言うより、祀ると言った方のが正しいか。
伝承を読んでいると、明らかに勝者の目線で書かれている。
敗者から見た桃太郎伝説を語る前に、少し事実と交えて伝承を整理する事にする。今から三十年程前のこと、鬼ノ城の伝説があった山が火事になった。
鎮火後、焼け跡から見慣れぬものが現れる。それは古い形態の石垣だった。


その後の調査の結果、それは古代(有力なのは7世紀頃とされるが未だ年代は特定できていない)に建設された朝鮮様式の山城址だと判明。更に調査を進めると、東西南北に四つの門、6つの水門、全国的にも珍しい防衛の為の角楼や、のろし台、食料貯蔵庫跡や水汲み場まであり、敵の侵略に備えて住民をも匿えるようにもなっていたと考えられた。

鬼ノ城とは標高400メートルの山に築かれた全周2.8kmにも及ぶ防衛施設だったのだ。また岡山県は古来より鋳物生産が盛んに行われていた。吉備津神社には古い鉄製の釜があるし、この地方には更に古い金属器も出土している。
片目を失ったり、川が赤く染まるという昔話は、蹈鞴の伝承でもある。温羅一族は製鉄集団だった。
ここで「温羅」という文字について考えたい。
「温」という漢字を辞書で引くと「あたためる、おだやか、なごやか」という意味がある。また、古代朝鮮では城壁の事を「羅城(ウル)」と呼ばれていた。
鬼ノ城という城壁(ウル)に囲まれた城に住み、鉄文化を広めた温(あたたかい)という文字を持つ王。死後、怨念を抱いてなお改心し、吉備の民に助言(鳴釜神事)する神となった事を考えると、温羅は万民を思い慕われていたのではないだろうか。
遠い百済から渡来し、吉備に辿り着いた温羅は、阿曽女という妻を娶り当時最先端の製鉄技術、建築技術等を伝え大きな国を造った。
しかし全国制覇を目論む大和朝廷にとって鉄を扱う温羅一族は面白くなかったのだろう。そこで武勇に秀でた五十狭芹彦命を差し向け戦わせた。大軍が迫れば国を守る為に温羅は鬼になって戦わざるを得なかった。
最後は目を射ぬかれ、雉や鯉に化けて逃げるも執拗に追われ、死してなお辱めを受け続けた。そんな温羅を想うと何ともいえない切ない気持ちになる。
温羅の部下達はどうなったのだろうか。調べてみた。
桃太郎に敗れた鬼達は四国に逃げ込み、またその地で成敗され、以来そこの地名は「鬼無」になったというのだ。鬼が滅ぼされていなくなったと現代では解釈されているが、最初から非道な鬼などいなかったので「鬼無」と呼ぶようになったのではないのだろうか。
吉備津彦命を祀った吉備津神社が岡山にはある。その境内にはなんと温羅も祀られている。
これは勝者の吉備津彦命も大軍を投入したにも関わらず、互角にわたりあった温羅に対して敬意を表していたのではと思う。
次回で桃太郎のお話は一度締めたいと思います。
※紅葉屋呉服店はこちら
吉備津神社には有名な神事、「鳴釜神事」というものが残っている。
これは実は温羅に関係している神事である。
前回の桃太郎伝説の最後の個所、赤文字部分を考えてみる。
それから13年の月日が経ったが未だに唸り声は続いていた。ほとほと参った五十狭芹彦命だったが、ある日彼の夢に温羅が現れ、こう告げた。
「我が愛した阿曽女を連れてまいれ。阿曽女を持って我を祀るならば声も鎮まろう。そして釜で占うがよい。吉事の時、我の首は穏やかに鳴り、凶事の時は荒々しく鳴るであろう」
こうして、ともかく呼び出された阿曽女によって温羅が祀られるようになると、恐ろしい唸り声はパッタリと止んだ。永きに渡った戦いもようやく幕を降ろすことになった。仕事を終えた五十狭芹彦命は吉備津彦命と名を改め、吉備臣の祖先となった。吉備津彦は死後、吉備中山に埋葬されたと言う。
討たれ、さらし首となり、尚且つ犬に食われて釡の下に封じられた温羅。13年にも亘り祟り続けるも、最後には自ら祟る神になるのを止め、万人の為に神託を告げる存在になった。阿曽女というのが地域を差しているのか、あるいは温羅の最愛の女性が阿曽出身の女性だったのかは分からないが、祟る神を慰める、封じる役目が、霊力をもった女性であるということだろう。
温羅のケースの場合は、封じると言うより、祀ると言った方のが正しいか。
伝承を読んでいると、明らかに勝者の目線で書かれている。
敗者から見た桃太郎伝説を語る前に、少し事実と交えて伝承を整理する事にする。今から三十年程前のこと、鬼ノ城の伝説があった山が火事になった。
鎮火後、焼け跡から見慣れぬものが現れる。それは古い形態の石垣だった。


その後の調査の結果、それは古代(有力なのは7世紀頃とされるが未だ年代は特定できていない)に建設された朝鮮様式の山城址だと判明。更に調査を進めると、東西南北に四つの門、6つの水門、全国的にも珍しい防衛の為の角楼や、のろし台、食料貯蔵庫跡や水汲み場まであり、敵の侵略に備えて住民をも匿えるようにもなっていたと考えられた。

鬼ノ城とは標高400メートルの山に築かれた全周2.8kmにも及ぶ防衛施設だったのだ。また岡山県は古来より鋳物生産が盛んに行われていた。吉備津神社には古い鉄製の釜があるし、この地方には更に古い金属器も出土している。
片目を失ったり、川が赤く染まるという昔話は、蹈鞴の伝承でもある。温羅一族は製鉄集団だった。
ここで「温羅」という文字について考えたい。
「温」という漢字を辞書で引くと「あたためる、おだやか、なごやか」という意味がある。また、古代朝鮮では城壁の事を「羅城(ウル)」と呼ばれていた。
鬼ノ城という城壁(ウル)に囲まれた城に住み、鉄文化を広めた温(あたたかい)という文字を持つ王。死後、怨念を抱いてなお改心し、吉備の民に助言(鳴釜神事)する神となった事を考えると、温羅は万民を思い慕われていたのではないだろうか。
遠い百済から渡来し、吉備に辿り着いた温羅は、阿曽女という妻を娶り当時最先端の製鉄技術、建築技術等を伝え大きな国を造った。
しかし全国制覇を目論む大和朝廷にとって鉄を扱う温羅一族は面白くなかったのだろう。そこで武勇に秀でた五十狭芹彦命を差し向け戦わせた。大軍が迫れば国を守る為に温羅は鬼になって戦わざるを得なかった。
最後は目を射ぬかれ、雉や鯉に化けて逃げるも執拗に追われ、死してなお辱めを受け続けた。そんな温羅を想うと何ともいえない切ない気持ちになる。
温羅の部下達はどうなったのだろうか。調べてみた。
桃太郎に敗れた鬼達は四国に逃げ込み、またその地で成敗され、以来そこの地名は「鬼無」になったというのだ。鬼が滅ぼされていなくなったと現代では解釈されているが、最初から非道な鬼などいなかったので「鬼無」と呼ぶようになったのではないのだろうか。
吉備津彦命を祀った吉備津神社が岡山にはある。その境内にはなんと温羅も祀られている。
これは勝者の吉備津彦命も大軍を投入したにも関わらず、互角にわたりあった温羅に対して敬意を表していたのではと思う。
次回で桃太郎のお話は一度締めたいと思います。
※紅葉屋呉服店はこちら
2020-03-25
◆鬼のお話 第6回 「温羅 討たれる」
それでは前回の続きから、古代岡山県で起こった桃太郎と鬼の戦い、その後を見てみよう。温羅はどこか悲しくも応援したくなる鬼です。このブログも力がついつい入ります。
◎五十狭芹彦命vs温羅 続き
何故鬼達が復活してくるのか。
疑問を抱いた五十狭芹彦命は密かに部下に鬼ノ城周辺を探らせた。
すると山奥に温泉があり負傷した鬼はそこで傷を癒していることが判明した。
そこで五十狭芹彦命は部下に温泉を埋めるよう指示し、自らも呪術で温泉を水に変えたところ、鬼達は復活しなくなったのである。
だがまだ問題はあった。
どれだけ矢を射っても温羅には当たらない。温羅を倒さねば戦には勝てぬ。彼が悩んでいるとどこからともなく童子が現れ「このままでは負けるであろう」と告げた。
この童子が只者ではないと直感した五十狭芹彦命は、どうすれば温羅を倒す事が出来るか教えを請うた。
「一度に二本の矢を放て、さすれば温羅を討ち取る事が出来よう」童子はそう言い残して姿を消した。
五十狭芹彦命は教えられた通り、二本の矢を同時に温羅に向けて放った!
一本の矢は空中で岩と激突したが、残った一本は温羅に届き彼の左目に突き刺さった。
五十狭芹彦命の呪力がこもった矢を受けた温羅はたまらず鬼ノ城から転げ落ち、それを見た鬼達も一斉に逃げ出し、温羅軍は総崩れとなった。
温羅は眼から血を噴出し、鬼ノ城から足守川へ流れる小川を真っ赤に染めた。
しかし戦いはこれで終わった訳ではない。ここからは、温羅と五十狭芹彦命の呪力の戦いとなった。
まず温羅はその身を童子に変え岩の下に隠れようとしたが、五十狭芹彦命は呪力でこれを防ぐ。次に温羅は雉に変化し空を舞うが五十狭芹彦命は鷹になり襲い掛かる。なおも逃げようとする温羅は、今度は鯉に化け川に飛び込むが、そうはさせじと鵜に化けた五十狭芹彦命が後を追う。
そうして終に温羅は捕らえられ、首を刎ねられたのだった。
・・・・と今回はここまでを紹介し、考えてみたい。
元は人間対人間の戦いの伝説であるとは思うが、温羅(鬼)も五十狭芹彦命(神)も呪術を使う同じような能力を持つ存在だ。気になった個所を色文字にしてみたがまずは赤い個所、温羅達が山に長けていたことや、片目を負傷したり、川の水が赤いという記述からは温羅が産鉄民、蹈鞴(たたら)を生業としている一族だったことが分かる。
王権側に組みしない豪族は、米や鉄を持っている場合攻撃対象になる。米は生活を安定させ、鉄は強力な武器になるからだ。ひれ伏さない限り、この二つは侵略して奪うほどの価値があるのである。
青色の部分について気になるのは、謎の童子が助っ人として現れることだ。
この童子、一説には住吉明神とも云われている。童子、即ち子供の姿の神は強い霊力を持つという。鬼の名前にも〇〇童子というものが多いのもこの為だろう。
住吉明神は軍神でもある。矢を二本放つという件を読んで思い出した話があった。地蔵寺釈厄外伝記(※注1)にて狐童女稲荷(きつねめいなり)が弁才天十六童子について一柱ずつ語る場面があるが、そこから引用してみよう。6番目の童子、愛敬童子(あいきょうどうじ)について紹介する場面だ。
「六つつ目其の前座しますは 右に二本矢 左に弓持つ 乙矢は封じ矢 その名手 本地は観世音菩薩 雨霰と降りかかる 悪災魔人を退治する 強いお味方 愛敬童子(施願童子)忘れてなるまい 人の心も射止めまするに」
二本目の矢の事を乙矢という。乙とは乙女、魔を封じるには女性でなければならない。日本の神社にはあまり公ではないが、一部に封じの神社というものが存在する。これは父から教えられ・・・あまりにも悲惨な例を見つけてしまうことも多いが・・・実際に足を運んで確認したが、その場合姫神が祀られることが多い。(もしくは封じる神が強力な武神の場合もある)
住吉明神が矢を二本で倒せ(封じろ)という神託を齎すというのは、仏教の弁才天の説話もこの昔話に取り込まれているのではと思う。住吉明神が弁才天の童子の姿で現れたとも解釈できる。
こうして、温羅は討たれてしまうが、この昔話はここで終わりではない。その後、一体どうなったかはまた次回のお話です。

参考文献 鬼 新紀元社
地蔵寺釈厄外伝記 瑠須庵著
特別顧問 白旗稲荷大明神と狐童女稲荷 ありがとうございました。
※注1「地蔵寺釈厄外伝記」とは?
私の父は特殊な才能があり、幼少時より稲荷神が憑き、頻繁に稲荷神と会話をしている。ある時、近所の地蔵寺のご住職に頼まれ、戦争で燃えた寺の縁起書の執筆を頼まれる。寺に残された資料は燃える前の縁起書を見た先代が手書きで残した原稿用紙2枚だけ。その2枚が今では原稿用紙40冊を超えまだ完成していない。
稲荷神の言葉をそのまま現代語訳したもので、西遊記のように面白い話。原稿執筆にあたり、父に縁のあった稲荷神が、地蔵寺守護神、白旗稲荷大明神の御分魂の狐童女稲荷であることが判明した。不思議な話です。
◎五十狭芹彦命vs温羅 続き
何故鬼達が復活してくるのか。
疑問を抱いた五十狭芹彦命は密かに部下に鬼ノ城周辺を探らせた。
すると山奥に温泉があり負傷した鬼はそこで傷を癒していることが判明した。
そこで五十狭芹彦命は部下に温泉を埋めるよう指示し、自らも呪術で温泉を水に変えたところ、鬼達は復活しなくなったのである。
だがまだ問題はあった。
どれだけ矢を射っても温羅には当たらない。温羅を倒さねば戦には勝てぬ。彼が悩んでいるとどこからともなく童子が現れ「このままでは負けるであろう」と告げた。
この童子が只者ではないと直感した五十狭芹彦命は、どうすれば温羅を倒す事が出来るか教えを請うた。
「一度に二本の矢を放て、さすれば温羅を討ち取る事が出来よう」童子はそう言い残して姿を消した。
五十狭芹彦命は教えられた通り、二本の矢を同時に温羅に向けて放った!
一本の矢は空中で岩と激突したが、残った一本は温羅に届き彼の左目に突き刺さった。
五十狭芹彦命の呪力がこもった矢を受けた温羅はたまらず鬼ノ城から転げ落ち、それを見た鬼達も一斉に逃げ出し、温羅軍は総崩れとなった。
温羅は眼から血を噴出し、鬼ノ城から足守川へ流れる小川を真っ赤に染めた。
しかし戦いはこれで終わった訳ではない。ここからは、温羅と五十狭芹彦命の呪力の戦いとなった。
まず温羅はその身を童子に変え岩の下に隠れようとしたが、五十狭芹彦命は呪力でこれを防ぐ。次に温羅は雉に変化し空を舞うが五十狭芹彦命は鷹になり襲い掛かる。なおも逃げようとする温羅は、今度は鯉に化け川に飛び込むが、そうはさせじと鵜に化けた五十狭芹彦命が後を追う。
そうして終に温羅は捕らえられ、首を刎ねられたのだった。
・・・・と今回はここまでを紹介し、考えてみたい。
元は人間対人間の戦いの伝説であるとは思うが、温羅(鬼)も五十狭芹彦命(神)も呪術を使う同じような能力を持つ存在だ。気になった個所を色文字にしてみたがまずは赤い個所、温羅達が山に長けていたことや、片目を負傷したり、川の水が赤いという記述からは温羅が産鉄民、蹈鞴(たたら)を生業としている一族だったことが分かる。
王権側に組みしない豪族は、米や鉄を持っている場合攻撃対象になる。米は生活を安定させ、鉄は強力な武器になるからだ。ひれ伏さない限り、この二つは侵略して奪うほどの価値があるのである。
青色の部分について気になるのは、謎の童子が助っ人として現れることだ。
この童子、一説には住吉明神とも云われている。童子、即ち子供の姿の神は強い霊力を持つという。鬼の名前にも〇〇童子というものが多いのもこの為だろう。
住吉明神は軍神でもある。矢を二本放つという件を読んで思い出した話があった。地蔵寺釈厄外伝記(※注1)にて狐童女稲荷(きつねめいなり)が弁才天十六童子について一柱ずつ語る場面があるが、そこから引用してみよう。6番目の童子、愛敬童子(あいきょうどうじ)について紹介する場面だ。
「六つつ目其の前座しますは 右に二本矢 左に弓持つ 乙矢は封じ矢 その名手 本地は観世音菩薩 雨霰と降りかかる 悪災魔人を退治する 強いお味方 愛敬童子(施願童子)忘れてなるまい 人の心も射止めまするに」
二本目の矢の事を乙矢という。乙とは乙女、魔を封じるには女性でなければならない。日本の神社にはあまり公ではないが、一部に封じの神社というものが存在する。これは父から教えられ・・・あまりにも悲惨な例を見つけてしまうことも多いが・・・実際に足を運んで確認したが、その場合姫神が祀られることが多い。(もしくは封じる神が強力な武神の場合もある)
住吉明神が矢を二本で倒せ(封じろ)という神託を齎すというのは、仏教の弁才天の説話もこの昔話に取り込まれているのではと思う。住吉明神が弁才天の童子の姿で現れたとも解釈できる。
こうして、温羅は討たれてしまうが、この昔話はここで終わりではない。その後、一体どうなったかはまた次回のお話です。

参考文献 鬼 新紀元社
地蔵寺釈厄外伝記 瑠須庵著
特別顧問 白旗稲荷大明神と狐童女稲荷 ありがとうございました。
※注1「地蔵寺釈厄外伝記」とは?
私の父は特殊な才能があり、幼少時より稲荷神が憑き、頻繁に稲荷神と会話をしている。ある時、近所の地蔵寺のご住職に頼まれ、戦争で燃えた寺の縁起書の執筆を頼まれる。寺に残された資料は燃える前の縁起書を見た先代が手書きで残した原稿用紙2枚だけ。その2枚が今では原稿用紙40冊を超えまだ完成していない。
稲荷神の言葉をそのまま現代語訳したもので、西遊記のように面白い話。原稿執筆にあたり、父に縁のあった稲荷神が、地蔵寺守護神、白旗稲荷大明神の御分魂の狐童女稲荷であることが判明した。不思議な話です。
2020-03-24
◆鬼のお話 第5回 「桃太郎」
次なる鬼のお話は、日本の昔話に登場する最も有名な鬼、と言っても題名は有名ながら倒される鬼のことについては、地元以外余り知られていない「温羅(うら)」につてのご紹介です。
出てくる物語の題名は「桃太郎」です。この桃太郎という昔話、元になった戦の昔話がある。そして桃太郎にもモデルがいた。
まずは古代の岡山県で勃発した大戦の概要を見てみよう。
◎五十狭芹彦命vs温羅
伝承では、温羅は百済の王子で、各国で悪事を働きながら日本に渡来し吉備(岡山県)の地に住み着いた。
身長は1丈4尺で髪は赤く縮れ、髭は長く、眼は獣のように輝き、頭には瘤のような形状の角があり、一般的によく知られる鬼の姿だったという。その能力は様々な呪術を行使し、空を飛んだり、火を吐いたり、子供や動物にも変身し、怪力の持ち主だった。
また飛んで来た矢に岩をぶつけるという技を使って体に矢が命中するのを防いだとも伝えられる。
温羅は吉備の新山に城(鬼ノ城)を構え手下を集め吉備国を荒らし始めた。朝廷への貢物を奪い、人を捕まえては釜で煮て食ったりした。吉備の人々は大和朝廷に助けを求めた。だが、朝廷から派遣された軍は、ことごとく温羅に打ち破られた。
温羅は自らを吉備冠者(吉備の王)と名乗り支配を続けた。時の天皇、崇神天皇(BC148~30第10代天皇、実在の初代天皇と言われる)は唯軍を送ったのでは温羅は倒せないと判断し、武勇誉れ高い五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと:後の吉備津彦命)に温羅討伐を命じた。
大軍を率いた五十狭芹彦命は吉備中山に陣を敷き、吉備中山西にある片岡山に部下を派遣し砦を築かせた。一方、朝廷軍の様子を見た温羅は部下と共に鬼ノ城に篭り戦いに備えた。戦いの火蓋が切って落とされたのである。

五十狭芹彦命は岩の上に矢を置き鬼ノ城に攻撃を掛けた。これに対し温羅は大岩を投げ飛ばして対抗した。五十狭芹彦命が放った矢は、温羅の投げた大岩に悉く当たり吉備中山と鬼ノ城の中間に落ちた。
五十狭芹彦命の戦略は確かで、軍も精鋭揃いだったが、矢が届かぬので戦が長引いていた。夜になると鬼達は城から出て周囲の村を襲った。これに対して五十狭芹彦命は楽々森命(さきもりのみこと)を遣わし村を襲う鬼達を倒した。勿論他の部下達も鬼達を倒していった。
ところが不思議な事に倒したはずの鬼達は次々と元気を取り戻し戦列に復帰していく。倒しても倒しても数が減らないので、五十狭芹彦命の軍は次第に疲弊していった。戦況はだんだんと不利になっていった。
・・・と、まずはここまで。凄まじい激戦だったからか、あるいはこの物語だけは後世に残さねばという意思が働いたのか、古代の戦闘にも関わらず、かなり詳細に出来事が残っている。

温羅は百済の王子であったいう箇所からは、ただ暴力的、山賊的な悪漢ではなく身分の高い人であったということが伝えたかったように思う。
それと、その能力の高さが伺える。日本各地に残る鬼伝説に登場する鬼の中でも、飛び抜けた能力を持っていた。火を吐く、空を舞う、変身する、岩を操るなどなど鬼が神であると伺えるほどの力だ。その身長もメートル換算で3m越えである。
鬼の王に相応しい力だ。あの大和朝廷の軍隊を以てしても太刀打ち出来ないという描写は、しょんぞそこらの鬼とは訳が違うよということか。
そんな無敵ともいえる力を持った温羅の軍団に、朝廷からこれまた猛将と云われる「五十狭芹彦命」が率いる軍隊が派遣される。五十狭芹彦命は孝霊天皇の第三王子で、後に温羅を倒し吉備を平定する。
しかし、五十狭芹彦命も最初から優勢だったわけではなく、開戦時は劣勢だったようだ。温羅の軍隊は倒しても倒しても減らないというのだ。果たしてその理由は・・・次回に続きます。
※紅葉屋呉服店はこちらまで
出てくる物語の題名は「桃太郎」です。この桃太郎という昔話、元になった戦の昔話がある。そして桃太郎にもモデルがいた。
まずは古代の岡山県で勃発した大戦の概要を見てみよう。
◎五十狭芹彦命vs温羅
伝承では、温羅は百済の王子で、各国で悪事を働きながら日本に渡来し吉備(岡山県)の地に住み着いた。
身長は1丈4尺で髪は赤く縮れ、髭は長く、眼は獣のように輝き、頭には瘤のような形状の角があり、一般的によく知られる鬼の姿だったという。その能力は様々な呪術を行使し、空を飛んだり、火を吐いたり、子供や動物にも変身し、怪力の持ち主だった。
また飛んで来た矢に岩をぶつけるという技を使って体に矢が命中するのを防いだとも伝えられる。
温羅は吉備の新山に城(鬼ノ城)を構え手下を集め吉備国を荒らし始めた。朝廷への貢物を奪い、人を捕まえては釜で煮て食ったりした。吉備の人々は大和朝廷に助けを求めた。だが、朝廷から派遣された軍は、ことごとく温羅に打ち破られた。
温羅は自らを吉備冠者(吉備の王)と名乗り支配を続けた。時の天皇、崇神天皇(BC148~30第10代天皇、実在の初代天皇と言われる)は唯軍を送ったのでは温羅は倒せないと判断し、武勇誉れ高い五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと:後の吉備津彦命)に温羅討伐を命じた。
大軍を率いた五十狭芹彦命は吉備中山に陣を敷き、吉備中山西にある片岡山に部下を派遣し砦を築かせた。一方、朝廷軍の様子を見た温羅は部下と共に鬼ノ城に篭り戦いに備えた。戦いの火蓋が切って落とされたのである。

五十狭芹彦命は岩の上に矢を置き鬼ノ城に攻撃を掛けた。これに対し温羅は大岩を投げ飛ばして対抗した。五十狭芹彦命が放った矢は、温羅の投げた大岩に悉く当たり吉備中山と鬼ノ城の中間に落ちた。
五十狭芹彦命の戦略は確かで、軍も精鋭揃いだったが、矢が届かぬので戦が長引いていた。夜になると鬼達は城から出て周囲の村を襲った。これに対して五十狭芹彦命は楽々森命(さきもりのみこと)を遣わし村を襲う鬼達を倒した。勿論他の部下達も鬼達を倒していった。
ところが不思議な事に倒したはずの鬼達は次々と元気を取り戻し戦列に復帰していく。倒しても倒しても数が減らないので、五十狭芹彦命の軍は次第に疲弊していった。戦況はだんだんと不利になっていった。
・・・と、まずはここまで。凄まじい激戦だったからか、あるいはこの物語だけは後世に残さねばという意思が働いたのか、古代の戦闘にも関わらず、かなり詳細に出来事が残っている。

温羅は百済の王子であったいう箇所からは、ただ暴力的、山賊的な悪漢ではなく身分の高い人であったということが伝えたかったように思う。
それと、その能力の高さが伺える。日本各地に残る鬼伝説に登場する鬼の中でも、飛び抜けた能力を持っていた。火を吐く、空を舞う、変身する、岩を操るなどなど鬼が神であると伺えるほどの力だ。その身長もメートル換算で3m越えである。
鬼の王に相応しい力だ。あの大和朝廷の軍隊を以てしても太刀打ち出来ないという描写は、しょんぞそこらの鬼とは訳が違うよということか。
そんな無敵ともいえる力を持った温羅の軍団に、朝廷からこれまた猛将と云われる「五十狭芹彦命」が率いる軍隊が派遣される。五十狭芹彦命は孝霊天皇の第三王子で、後に温羅を倒し吉備を平定する。
しかし、五十狭芹彦命も最初から優勢だったわけではなく、開戦時は劣勢だったようだ。温羅の軍隊は倒しても倒しても減らないというのだ。果たしてその理由は・・・次回に続きます。
※紅葉屋呉服店はこちらまで
2020-03-18
◆鬼のお話 第4回 そして天満大自在天へ
菅原家は名門の御家柄だった。古くから朝廷に仕えていた。そんな菅原家に関するお話も出て来たので紹介する。
先祖神は天穂日命(あまのほひのみこと)で、その子孫には相撲の神様とも呼ばれるあの野見宿祢(のみのすくね)へと繋がる。
天穂日命については、記紀神話ではこうある。
天照大御神と素戔嗚尊が誓約をした際、素戔嗚尊は天照大神から渡された八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を、天真名井の聖水を降りすすぎ、噛んで吐き捨てた。その息から五柱の神々が生まれた。その中の一柱が天穂日命だ。
菅原家の先祖神に、荒ぶる神素戔嗚尊に繋がる神様がいたというのはなるほどなと思う。
野見宿祢の有名な話は、日本最初の相撲の取り組み(?)、当麻蹴速との力比べが有名だ。この勝負では野見宿祢が勝っている。また野見宿祢は古墳に設置する埴輪を提案した人物だと云う。
その当時、身分の高い人が亡くなると、沢山の殉死者を生きたまま埋葬(!)していたというが、これを止めさせ、代わりに埴輪を埋葬することを考えたのだ。古墳に行く時はこれから注意しよう。
この功績により、野見宿祢の一族は土師(はじ)氏の名を賜り、以後天皇家の葬儀などに関わる様になった。それから時代は下って天応元年(781年)、野見宿祢の子孫、近江介(おうみすけ:近江の国の公務員の役職の一つ)だった土師宿祢古人(はじのすくねふるひと)ら一族15名は朝廷に奏上し、居住地である菅原の姓に変えることを許可された。
改姓したことで、葬儀屋という印象を払拭し、一族の進む道を学問のみとし心機一転することになる。
以後、菅原家は遣唐使や侍読(じどく:簡単に言えば天皇の家庭教師)などを務める優れた学者を多く輩出した。その血統は道真公にも受け継がれて行った。
子供の頃から才能豊かだった道真公、11歳で詩をつくり、13歳では父に劣らぬ和歌を詠むようになった。その後、猛勉強の末、菅原家では初の右大臣に任命された。学者出身で右大臣になったのは吉備真備以来だったと云う。
前回のおさらいだが、その後道真公は無実の罪、天皇家の転覆を画策したという理由で太宰府へと流される。後の資料から、太宰府のすまいは「屋根は雨漏りし、官舎の入り口は草に覆われ、井戸は土砂が詰まって使えず、家の周りの垣根は壊れている」という廃屋さながらだったようだ。
その後、ご存知の通り失意のまま亡くなり、鬼神として復活し祟りが起きる。恐れた人々は神として祀るようになった。
祀られるに至る際、こんな話があった。
まずは太宰府天満宮。こちらは延喜五年(905年)、太宰府の味酒安行(まさけやすゆき)が神託により神殿を建て道真公を祀ったと云う。祀る際に道真公の神名を「天満大自在天神」とした。
道真公を祀る今一つの有名神社、北野天満宮も天暦5年(947年)、近江国の神良種(かみよしたね)の息子、太郎丸なる人物や、北野にある朝日寺の僧もご神託をうけたことが切っ掛けだった。
北野の地は元々「天神」即ち天津神(天上の神々)を祀る神社だったが、こちらに道真公を一緒に祀ることになった。しかし、だんだんと道真公の人気の方が大きくなり、元々祀られていた天津神は、主祀神の座を入れ替えられてしまった。
それだけ祀る方も神経を使ったのだろう。今日では「天神」という言葉は、本来の天津神を差すのではなく、菅原道真公になってしまった。
祟る荒ぶる神になってしまうと、もうこれは祀って崇めるしかないというのが、古くからの被害を受けないようにする考え方の一つだ。しかし、いくら祀る方が神社を建立しても、それは一方的な考え方で、建ててお参りすれば治まるというものでもないだろう。
当の祀られる荒ぶる神が、納得しないで祀ろうと思ってもそれは無理だ。かえって火に油を注ぐ事態にもなりかねない。
道真公の場合は、結果を見るに祀ることに成功した。これはやはり、道真公が元々秀才であり、また観世音菩薩を個人的に信仰していこと、有名な天台宗の僧侶と親交があったことなどから、仏教も学んでいたことが大きかったのではと思う。祟る鬼神でい続けることを良しとしなかったのだろう。付け加えるなら、目的を果たしたことである程度溜飲が下がったこともあると思う。
道真公は天満自在天として生まれ変わった。自身が謂れのない罪を着せられ苦労したこともあり、自分のような仕打ちを受けた弱者に対しては(きちんとすがってお参りする者には)必ず耳を傾けてくれると思う。
天満大自在天の御利益は、学問の向上が有名だが、農業関係の願い、そして冤罪を晴らしたいという願いには大いに御力添えを頂けると思います。

参考文献
日本の神様 読み解き事典 柏書房
鬼 新紀元社
※紅葉屋呉服店はこちらまで
先祖神は天穂日命(あまのほひのみこと)で、その子孫には相撲の神様とも呼ばれるあの野見宿祢(のみのすくね)へと繋がる。
天穂日命については、記紀神話ではこうある。
天照大御神と素戔嗚尊が誓約をした際、素戔嗚尊は天照大神から渡された八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を、天真名井の聖水を降りすすぎ、噛んで吐き捨てた。その息から五柱の神々が生まれた。その中の一柱が天穂日命だ。
菅原家の先祖神に、荒ぶる神素戔嗚尊に繋がる神様がいたというのはなるほどなと思う。
野見宿祢の有名な話は、日本最初の相撲の取り組み(?)、当麻蹴速との力比べが有名だ。この勝負では野見宿祢が勝っている。また野見宿祢は古墳に設置する埴輪を提案した人物だと云う。
その当時、身分の高い人が亡くなると、沢山の殉死者を生きたまま埋葬(!)していたというが、これを止めさせ、代わりに埴輪を埋葬することを考えたのだ。古墳に行く時はこれから注意しよう。
この功績により、野見宿祢の一族は土師(はじ)氏の名を賜り、以後天皇家の葬儀などに関わる様になった。それから時代は下って天応元年(781年)、野見宿祢の子孫、近江介(おうみすけ:近江の国の公務員の役職の一つ)だった土師宿祢古人(はじのすくねふるひと)ら一族15名は朝廷に奏上し、居住地である菅原の姓に変えることを許可された。
改姓したことで、葬儀屋という印象を払拭し、一族の進む道を学問のみとし心機一転することになる。
以後、菅原家は遣唐使や侍読(じどく:簡単に言えば天皇の家庭教師)などを務める優れた学者を多く輩出した。その血統は道真公にも受け継がれて行った。
子供の頃から才能豊かだった道真公、11歳で詩をつくり、13歳では父に劣らぬ和歌を詠むようになった。その後、猛勉強の末、菅原家では初の右大臣に任命された。学者出身で右大臣になったのは吉備真備以来だったと云う。
前回のおさらいだが、その後道真公は無実の罪、天皇家の転覆を画策したという理由で太宰府へと流される。後の資料から、太宰府のすまいは「屋根は雨漏りし、官舎の入り口は草に覆われ、井戸は土砂が詰まって使えず、家の周りの垣根は壊れている」という廃屋さながらだったようだ。
その後、ご存知の通り失意のまま亡くなり、鬼神として復活し祟りが起きる。恐れた人々は神として祀るようになった。
祀られるに至る際、こんな話があった。
まずは太宰府天満宮。こちらは延喜五年(905年)、太宰府の味酒安行(まさけやすゆき)が神託により神殿を建て道真公を祀ったと云う。祀る際に道真公の神名を「天満大自在天神」とした。
道真公を祀る今一つの有名神社、北野天満宮も天暦5年(947年)、近江国の神良種(かみよしたね)の息子、太郎丸なる人物や、北野にある朝日寺の僧もご神託をうけたことが切っ掛けだった。
北野の地は元々「天神」即ち天津神(天上の神々)を祀る神社だったが、こちらに道真公を一緒に祀ることになった。しかし、だんだんと道真公の人気の方が大きくなり、元々祀られていた天津神は、主祀神の座を入れ替えられてしまった。
それだけ祀る方も神経を使ったのだろう。今日では「天神」という言葉は、本来の天津神を差すのではなく、菅原道真公になってしまった。
祟る荒ぶる神になってしまうと、もうこれは祀って崇めるしかないというのが、古くからの被害を受けないようにする考え方の一つだ。しかし、いくら祀る方が神社を建立しても、それは一方的な考え方で、建ててお参りすれば治まるというものでもないだろう。
当の祀られる荒ぶる神が、納得しないで祀ろうと思ってもそれは無理だ。かえって火に油を注ぐ事態にもなりかねない。
道真公の場合は、結果を見るに祀ることに成功した。これはやはり、道真公が元々秀才であり、また観世音菩薩を個人的に信仰していこと、有名な天台宗の僧侶と親交があったことなどから、仏教も学んでいたことが大きかったのではと思う。祟る鬼神でい続けることを良しとしなかったのだろう。付け加えるなら、目的を果たしたことである程度溜飲が下がったこともあると思う。
道真公は天満自在天として生まれ変わった。自身が謂れのない罪を着せられ苦労したこともあり、自分のような仕打ちを受けた弱者に対しては(きちんとすがってお参りする者には)必ず耳を傾けてくれると思う。
天満大自在天の御利益は、学問の向上が有名だが、農業関係の願い、そして冤罪を晴らしたいという願いには大いに御力添えを頂けると思います。

参考文献
日本の神様 読み解き事典 柏書房
鬼 新紀元社
※紅葉屋呉服店はこちらまで
Powered by FC2 Blog
Copyright © ◆ 『神仏御縁結』 紅葉屋呉服店の店主のブログ All Rights Reserved.