2023-03-25
◆天河神社参拝を終えて
天河神社参拝を終えて、色々と思うことがありました。
当店へご来店された方の中には、ご存知の方も多いと思いますが、我が家では神様や仏様をお祀りしています。
在家では珍しい部類になるかと思いますが、さながらお寺のようです。
先代が亡くなった後(実際には亡くなる少し前)、私の一番気になっていたのは、家で祀る神仏への接し方でした。最適解が分からない状態から、一つずつ意識して、より向かい合うようになりますとこうした方が良いのでは?と気付きを頂くようになりました。
そんな中、何時頃からか一つの疑問が湧いてきました。それは自分が主にする神仏は一体どなたなのだろうか?と言うものです。
それが天河神社参拝を経てはっきりと分かりました。
私にとっては弁天様でした。
先代は生涯仏様への信仰心を捨てなかったです。父は仕事のことで悩んでいる時に言葉を投げかけてくれました。それは「稲荷を味方につけると楽だぞ」というものでした。事実、父は観世音菩薩と稲荷神は熱心にお参りしていました。
頭で理解している場合と、実践の中で学ぶことは違うように思います。
いくら稲荷神を味方にしようとしても、こちらから働きかけないと動いてくれるものも、動いてくれないように思います。それにここはと決めたお稲荷さんがあっても、数回の参拝で終わっては意味がないでしょう。
この神仏を味方につけたいと熱心にお参りしたり、何度も参拝に行ったり、御札を分けてもらって家でも祀ったりしていると確かに変わってくるように思います。
また、これも続けていて分かったことですが、気持ちが入ってお参りを続けていると、別の神仏とのご縁が結ばれることもあります。
私の場合、子供の頃から気付けば観音様やお稲荷さん、天神様と一緒に生活する環境でしたが、お参りをずっと続けていたら、何故か弁天様をお参りするようになってしまいました。
これは我が家のお稲荷さんが道筋をつけてくれたのではと思いますが、弁天様の方からも呼んでもらえたのでしょう。有難いことです。でも、これは何も特別なことでは無く、誰でも素直に心から信じて求めれば、自然と行くべき寺社、神仏に辿り着けると思います。
紅葉屋呉服店はこちらまで

画像は天河神社参拝後、移動中にみつけた毘沙門堂。鍵が掛かっていましたが、地元の人に声をかけて頂き開けてもらえました。
当店へご来店された方の中には、ご存知の方も多いと思いますが、我が家では神様や仏様をお祀りしています。
在家では珍しい部類になるかと思いますが、さながらお寺のようです。
先代が亡くなった後(実際には亡くなる少し前)、私の一番気になっていたのは、家で祀る神仏への接し方でした。最適解が分からない状態から、一つずつ意識して、より向かい合うようになりますとこうした方が良いのでは?と気付きを頂くようになりました。
そんな中、何時頃からか一つの疑問が湧いてきました。それは自分が主にする神仏は一体どなたなのだろうか?と言うものです。
それが天河神社参拝を経てはっきりと分かりました。
私にとっては弁天様でした。
先代は生涯仏様への信仰心を捨てなかったです。父は仕事のことで悩んでいる時に言葉を投げかけてくれました。それは「稲荷を味方につけると楽だぞ」というものでした。事実、父は観世音菩薩と稲荷神は熱心にお参りしていました。
頭で理解している場合と、実践の中で学ぶことは違うように思います。
いくら稲荷神を味方にしようとしても、こちらから働きかけないと動いてくれるものも、動いてくれないように思います。それにここはと決めたお稲荷さんがあっても、数回の参拝で終わっては意味がないでしょう。
この神仏を味方につけたいと熱心にお参りしたり、何度も参拝に行ったり、御札を分けてもらって家でも祀ったりしていると確かに変わってくるように思います。
また、これも続けていて分かったことですが、気持ちが入ってお参りを続けていると、別の神仏とのご縁が結ばれることもあります。
私の場合、子供の頃から気付けば観音様やお稲荷さん、天神様と一緒に生活する環境でしたが、お参りをずっと続けていたら、何故か弁天様をお参りするようになってしまいました。
これは我が家のお稲荷さんが道筋をつけてくれたのではと思いますが、弁天様の方からも呼んでもらえたのでしょう。有難いことです。でも、これは何も特別なことでは無く、誰でも素直に心から信じて求めれば、自然と行くべき寺社、神仏に辿り着けると思います。
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画像は天河神社参拝後、移動中にみつけた毘沙門堂。鍵が掛かっていましたが、地元の人に声をかけて頂き開けてもらえました。
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2023-03-24
◆天河参り
休日に久しぶりに一人で寺社参りに行った時のお話です。
休日はいつも家族と一緒が多いですが、今回は一人で休日を過ごすことになったのでどこに行こうかと思案しました。久しぶりに奈良に行くか、国立博物館が良いなと言う結論になりました。しかし、前日になり急遽予定を変更し、二日前まで頭に全く無かった天河弁才天へ参拝に行くことになりました。

そう至った理由はこのような理由があったからです。
①たまたま大峰山の蔵王権現曼荼羅の掛軸を目にすることがあった。(前回ブログ参照)
②たまたま立ち寄った本屋で蔵王権現の表紙の本を見つけた。
③真言宗のお坊さんの著書を読んでいた時に、弁才天の御利益についての記述があった。
この三つが切っ掛けで、決定打になったのは③の本を読んでいる最中に「奈良に行くなら天河だ。博物館じゃない」と頭の中に言葉がいきなり浮かんできたことでした。天河神社に行く気は全然無かったので決めた時は自分でも驚きました。
それと天河行きを決めたも理由はもう一つありました。おみくじです。2022年の秋頃、我が家とご縁をのあるお稲荷さんの大本の寺、岡山県の最上稲荷に家族で参拝に行った際、何か最上稲荷様に必要なお言葉を頂きたいと、帰り際におみくじを引きました。
その御神籤にあった文言の中で、「うん?」という箇所がありました。一言一句は忘れましたがこのようなものです。
「あなたが求めた最高のタイミングで思わぬ協力者があらわれるでしょう」
一体何のことか、誰か縁を拡げてくれるような人が出てくるのかな?とその時は思いましたが、今回、理屈ではない何かものすごく引っ張られるような感じで気付かせてもらいましたが、この協力者というのがどうも弁天様のような気がしたのです。
我が家では奇縁有りまして江戸時代の弁才天像を祀っています。(この弁才天像については過去ブログに纏めましたので、ご興味のある方は読んでみてください)
この宇賀弁才天像は2021年の春ごろに修理・開眼を終え現在に至りますが、この年変わった初夢を観ました。1月2日です。
それは始めて会うお坊様でした。白い山を歩くような着物姿でした。お坊さんは「おまえが何に守られているか教えてやろうか?」と言いました。私は「はい、お願いします」と答えると、「ここに来る前に既にすれ違っておるわ」と言いました。後ろを振り返るとそこには見上げるような大きさの宇賀神がいたというものです。

天河に行こうと決めたのは、これらの点と点が一つに結ばれたような気がしたからです。
朝早く家を出て、天河神社に到着したのは9時45分でした。天河神社は4回目のお参りです。その中には2回の御開帳がありました。4回目の参拝では、過去2回の御開帳の縁で頂いたお札が2枚ありましたので、これもお返ししてきました。
私は寺社参りの時は殆どお願い事をしたことがありません。しかし、今回はお願いに行って来ました。
参拝後、これも根拠は無くいきなり脳裏に浮かんだのですが、家で祀っている弁才天像の最初の持ち主は、どうもこの地域を中心に修行をしていた僧侶では?家に祀る弁才天像は天河と縁が深いのでは?と思うようになりました。
この日気付いたことは私の思い込みと言われればそれまでですが、いろいろな意味で衝撃的な1日となりました。
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休日はいつも家族と一緒が多いですが、今回は一人で休日を過ごすことになったのでどこに行こうかと思案しました。久しぶりに奈良に行くか、国立博物館が良いなと言う結論になりました。しかし、前日になり急遽予定を変更し、二日前まで頭に全く無かった天河弁才天へ参拝に行くことになりました。

そう至った理由はこのような理由があったからです。
①たまたま大峰山の蔵王権現曼荼羅の掛軸を目にすることがあった。(前回ブログ参照)
②たまたま立ち寄った本屋で蔵王権現の表紙の本を見つけた。
③真言宗のお坊さんの著書を読んでいた時に、弁才天の御利益についての記述があった。
この三つが切っ掛けで、決定打になったのは③の本を読んでいる最中に「奈良に行くなら天河だ。博物館じゃない」と頭の中に言葉がいきなり浮かんできたことでした。天河神社に行く気は全然無かったので決めた時は自分でも驚きました。
それと天河行きを決めたも理由はもう一つありました。おみくじです。2022年の秋頃、我が家とご縁をのあるお稲荷さんの大本の寺、岡山県の最上稲荷に家族で参拝に行った際、何か最上稲荷様に必要なお言葉を頂きたいと、帰り際におみくじを引きました。
その御神籤にあった文言の中で、「うん?」という箇所がありました。一言一句は忘れましたがこのようなものです。
「あなたが求めた最高のタイミングで思わぬ協力者があらわれるでしょう」
一体何のことか、誰か縁を拡げてくれるような人が出てくるのかな?とその時は思いましたが、今回、理屈ではない何かものすごく引っ張られるような感じで気付かせてもらいましたが、この協力者というのがどうも弁天様のような気がしたのです。
我が家では奇縁有りまして江戸時代の弁才天像を祀っています。(この弁才天像については過去ブログに纏めましたので、ご興味のある方は読んでみてください)
この宇賀弁才天像は2021年の春ごろに修理・開眼を終え現在に至りますが、この年変わった初夢を観ました。1月2日です。
それは始めて会うお坊様でした。白い山を歩くような着物姿でした。お坊さんは「おまえが何に守られているか教えてやろうか?」と言いました。私は「はい、お願いします」と答えると、「ここに来る前に既にすれ違っておるわ」と言いました。後ろを振り返るとそこには見上げるような大きさの宇賀神がいたというものです。

天河に行こうと決めたのは、これらの点と点が一つに結ばれたような気がしたからです。
朝早く家を出て、天河神社に到着したのは9時45分でした。天河神社は4回目のお参りです。その中には2回の御開帳がありました。4回目の参拝では、過去2回の御開帳の縁で頂いたお札が2枚ありましたので、これもお返ししてきました。
私は寺社参りの時は殆どお願い事をしたことがありません。しかし、今回はお願いに行って来ました。
参拝後、これも根拠は無くいきなり脳裏に浮かんだのですが、家で祀っている弁才天像の最初の持ち主は、どうもこの地域を中心に修行をしていた僧侶では?家に祀る弁才天像は天河と縁が深いのでは?と思うようになりました。
この日気付いたことは私の思い込みと言われればそれまでですが、いろいろな意味で衝撃的な1日となりました。
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2021-02-19
◆弁才天像の修理 ~弁天様との御縁の話~ その後
前回はこちら
発遣・修理・開眼を終えた宇賀弁才天像。
毎日手を合わせていますが、厨子を閉じることにしました。

画像は外厨子。この中に更に修理した厨子があり、その中に弁才天像が納入されています。
弁才天のことが段々分かって来たので、在家で祀るにはどうしようかと父と話し合いました。
結論は家族でお参りする分には開いていても構わないが、たまにお客様でお参りしたいという方もみえるので、そうであるなら厨子を閉じておいた方が良いのかもしれないということになりました。
我々庶民に馴染み深い神仏には、稲荷神や弁才天などがいらっしゃいますが、どちらも仏教で言えば天部とか諸天善神と呼ばれる存在です。ここ数年、多分もっと学べということなのだと思いますが、少しずつ神仏との接し方が分かってきました。
具体的に説明せよと云われても、お坊様ではないので言葉での説明は難しいですが、在家で開眼した天部像を祀るのは止めた方が良いという意見も、なんとなく分かる様になりました。(実際のところ、何か我が家に起こっているということは全然ないです)
ただ、締めっぱなしというのも寂しいので、弁才天の縁日でもある己巳(つちのとみ)の日と、己亥(つちのとい)の日は開帳してささやかですがちょっとしたお祭をしようかと計画中です。
己巳の日は年間6回、己亥の日も年間で6回あります。丁度、毎月一回開帳日がある計算になります。お参りの仕方も少しずつ分かってきたので、ある意味楽しみながらやれたらと思います。
思えば私は人生の随分早い段階で仏縁を頂きました。今振り返るに、今まで色々な御縁、人の縁、物の縁、動物の縁などなど頂きました。どれも有難い御縁ですが、こと仏縁に関しては本当にあって良かったなとしみじみ思います。
発遣・修理・開眼を終えた宇賀弁才天像。
毎日手を合わせていますが、厨子を閉じることにしました。

画像は外厨子。この中に更に修理した厨子があり、その中に弁才天像が納入されています。
弁才天のことが段々分かって来たので、在家で祀るにはどうしようかと父と話し合いました。
結論は家族でお参りする分には開いていても構わないが、たまにお客様でお参りしたいという方もみえるので、そうであるなら厨子を閉じておいた方が良いのかもしれないということになりました。
我々庶民に馴染み深い神仏には、稲荷神や弁才天などがいらっしゃいますが、どちらも仏教で言えば天部とか諸天善神と呼ばれる存在です。ここ数年、多分もっと学べということなのだと思いますが、少しずつ神仏との接し方が分かってきました。
具体的に説明せよと云われても、お坊様ではないので言葉での説明は難しいですが、在家で開眼した天部像を祀るのは止めた方が良いという意見も、なんとなく分かる様になりました。(実際のところ、何か我が家に起こっているということは全然ないです)
ただ、締めっぱなしというのも寂しいので、弁才天の縁日でもある己巳(つちのとみ)の日と、己亥(つちのとい)の日は開帳してささやかですがちょっとしたお祭をしようかと計画中です。
己巳の日は年間6回、己亥の日も年間で6回あります。丁度、毎月一回開帳日がある計算になります。お参りの仕方も少しずつ分かってきたので、ある意味楽しみながらやれたらと思います。
思えば私は人生の随分早い段階で仏縁を頂きました。今振り返るに、今まで色々な御縁、人の縁、物の縁、動物の縁などなど頂きました。どれも有難い御縁ですが、こと仏縁に関しては本当にあって良かったなとしみじみ思います。
2021-02-09
◆弁才天像の修理に至るまでの経緯 ~弁天様との御縁の話 最終回~
前回その6はこちら
修理前の弁才天です。開眼後の写真はちょっと撮れないと思いましたので、発遣後のお写真です。
私は仏像好きなので、今までお参りにいったお寺で撮影の許可を頂いたら仏像の写真を撮っていましたが、今後はそういうこともより慎重になりそうです。やはり寺院で祀られる仏像は全て開眼されているので、そう気軽に撮ってはいけないものだと、自分が弁才天像の供養に立ち会ったことで、勉強・・・というより思い知らされました。

厨子は新品同様の直しをしましたが、弁才天は現状を維持したまま、古色を保ったまま直すことにしました。やはり様々な人が拝んだと思いますので、そういう歴史を感じるような直しにするのも大事かなと思った次第です。
手を入れた個所を言えば、まずは全体的に埃が堆積しているので、お掃除ですね。

それと亡失した個所の修復です。青○部分には鳥居があったはずです。宇賀弁才天像は、弁天様の頭上に宇賀神というお顔が老人、体が蛇の神様が乗っています。この神様の由来をしらべたら、どうも稲荷神と同体であるようです。
それと青矢印の部分。頭に被る宝冠ですが、頭に刺さって固定してありますので、これをまず抜くことにしました。何か仏像の頭に飾りを刺して固定するというのが、どうにも辛そうというか、いけないような気がしたからです。
仏師さんに聞けば、当時の仏像の作り方でこういう差し込むというのは、割とあったそうです。
古美術品として見れば、当時の作り方を忠実に踏まえて直さねばならないでしょうが、信仰の対象としてこれからも祀っていきたいので、心の声に従いました。冠の飾りは引き抜き、残った穴は埋めてもらい、亡失した鳥居共々新造することにしました。
新造した冠は輪っか状にしてもらい、上から被せる形にしました。
弁天様の背後の円光背は、中心がずれているので正面にくるようにしてもらい、光背の飾りの一部変形している個所も元通り直してもらいました。

宇賀弁才天は八本の腕がありますが、それぞれの手には持物があります。画像で言えば上が鍵、下が矢です。鍵は宝蔵の印やくとも言いますが、悟りを開くための知恵が詰まった蔵を開ける鍵、矢は愛染明王が持っている弓矢の矢です。(確か)
これもひん曲がっていましたので、元通り直してもらいました。折れたら新造して下さいと伝えましたが折れなくて良かったです。こういう仏像はそうそう触ることは出来ないので、何故にこんなに持物が変形しているのか謎でしたが、頻繁に持ち運びで移動していたとすれば、揺れる度にぶつけて曲がったのかもしれないですね。

蓮花台の下の板裏も漆が剥がれてボロボロだったので、一旦剥いで塗り直してもらいました。

こちらが修理を終えた弁才天像。写真の撮り方のせいかもしれませんが、修理前と随分印象が変わったような・・・。
全体的に掃除をしてもらったことで、思った以上に色彩が豊かな像だと分かりました。変形した持物、光背も当初の様相に近付いたかと思います。

鳥居付の宝冠も立派です。仏師さんからは金色のままか、あるいは古色仕上げにするか聞かれたので、古い像に冠だけピカピカはおかしいかなと思い、古色仕上げにしてもらいました。
家に弁才天像を持ち帰り、良くなったなぁと眺めていた所「あれっ?」と思う箇所を見つけました。手に持つ剣です。

修理前の剣はくの字に折れ曲がっており、修理後はまっすぐになっていましたが、冠から垂れる衣(?)が剣の前にあったのです。

この場合、衣は剣の後ろにあるのが自然です。蔵書の中から弁才天像の写真を探しましたが、同じような形状の冠の場合、やはり剣の後ろに衣が来ているのが正しいようでした。
「どうしよう。直すか?」
と考えましたが、自分よりもはるかに仏像の造形に詳しい仏師が、果たして間違えるだろうか?これは理屈が分かっている仏師でも、こういう形にさせられたのでは?と思いました。
こちらの宇賀弁才天様は、滅多なことでは剣を振るいたくないのではと解釈しました。
父に聞けば、「在家で祀るには、この姿の方がよりマイルドになるからもう触らない方が良い」というのが見解でした。
弁才天は七福神として、紅一点の女神として庶民の神様となりました。御利益的には金運・財運・芸事の神様とされました。しかし、本来は才能の神、弁舌の神であり、うんと古い時代は「怨敵退散」の御利益があるとされてきました。
そういう歴史を踏まえると、聞きたくもない願いを聞いた可能性も否定できません。その傷んだ姿からすれば、かなりご苦労された弁天様ではないか?と推測しました。
さて、こうして完成した弁才天像。開眼の儀式もA和尚に御尽力頂き、無事終わりました。
現在、毎日お参りしておりますが、ここまでこれたのも、遠方よりお経を上げに来てくれたお坊様、また丁寧な直しをして頂いた仏師さん、私の行動を理解してくれた家族、そして直すチャンスを与えて下さった弁天様のお陰です。何が一つ欠けてても成し遂げれなかったでしょう。本当にありがとうございました。
ただ、これからがまた大変でもあります。頂いた御縁をどうするか、どう繋げていくか、そして私自身も心の勉強をしなければと思う今日この頃です。
今回のテーマはこれにて終わりです。最後まで読んで頂きありがとうございました。
修理前の弁才天です。開眼後の写真はちょっと撮れないと思いましたので、発遣後のお写真です。
私は仏像好きなので、今までお参りにいったお寺で撮影の許可を頂いたら仏像の写真を撮っていましたが、今後はそういうこともより慎重になりそうです。やはり寺院で祀られる仏像は全て開眼されているので、そう気軽に撮ってはいけないものだと、自分が弁才天像の供養に立ち会ったことで、勉強・・・というより思い知らされました。

厨子は新品同様の直しをしましたが、弁才天は現状を維持したまま、古色を保ったまま直すことにしました。やはり様々な人が拝んだと思いますので、そういう歴史を感じるような直しにするのも大事かなと思った次第です。
手を入れた個所を言えば、まずは全体的に埃が堆積しているので、お掃除ですね。

それと亡失した個所の修復です。青○部分には鳥居があったはずです。宇賀弁才天像は、弁天様の頭上に宇賀神というお顔が老人、体が蛇の神様が乗っています。この神様の由来をしらべたら、どうも稲荷神と同体であるようです。
それと青矢印の部分。頭に被る宝冠ですが、頭に刺さって固定してありますので、これをまず抜くことにしました。何か仏像の頭に飾りを刺して固定するというのが、どうにも辛そうというか、いけないような気がしたからです。
仏師さんに聞けば、当時の仏像の作り方でこういう差し込むというのは、割とあったそうです。
古美術品として見れば、当時の作り方を忠実に踏まえて直さねばならないでしょうが、信仰の対象としてこれからも祀っていきたいので、心の声に従いました。冠の飾りは引き抜き、残った穴は埋めてもらい、亡失した鳥居共々新造することにしました。
新造した冠は輪っか状にしてもらい、上から被せる形にしました。
弁天様の背後の円光背は、中心がずれているので正面にくるようにしてもらい、光背の飾りの一部変形している個所も元通り直してもらいました。

宇賀弁才天は八本の腕がありますが、それぞれの手には持物があります。画像で言えば上が鍵、下が矢です。鍵は宝蔵の印やくとも言いますが、悟りを開くための知恵が詰まった蔵を開ける鍵、矢は愛染明王が持っている弓矢の矢です。(確か)
これもひん曲がっていましたので、元通り直してもらいました。折れたら新造して下さいと伝えましたが折れなくて良かったです。こういう仏像はそうそう触ることは出来ないので、何故にこんなに持物が変形しているのか謎でしたが、頻繁に持ち運びで移動していたとすれば、揺れる度にぶつけて曲がったのかもしれないですね。

蓮花台の下の板裏も漆が剥がれてボロボロだったので、一旦剥いで塗り直してもらいました。

こちらが修理を終えた弁才天像。写真の撮り方のせいかもしれませんが、修理前と随分印象が変わったような・・・。
全体的に掃除をしてもらったことで、思った以上に色彩が豊かな像だと分かりました。変形した持物、光背も当初の様相に近付いたかと思います。

鳥居付の宝冠も立派です。仏師さんからは金色のままか、あるいは古色仕上げにするか聞かれたので、古い像に冠だけピカピカはおかしいかなと思い、古色仕上げにしてもらいました。
家に弁才天像を持ち帰り、良くなったなぁと眺めていた所「あれっ?」と思う箇所を見つけました。手に持つ剣です。

修理前の剣はくの字に折れ曲がっており、修理後はまっすぐになっていましたが、冠から垂れる衣(?)が剣の前にあったのです。

この場合、衣は剣の後ろにあるのが自然です。蔵書の中から弁才天像の写真を探しましたが、同じような形状の冠の場合、やはり剣の後ろに衣が来ているのが正しいようでした。
「どうしよう。直すか?」
と考えましたが、自分よりもはるかに仏像の造形に詳しい仏師が、果たして間違えるだろうか?これは理屈が分かっている仏師でも、こういう形にさせられたのでは?と思いました。
こちらの宇賀弁才天様は、滅多なことでは剣を振るいたくないのではと解釈しました。
父に聞けば、「在家で祀るには、この姿の方がよりマイルドになるからもう触らない方が良い」というのが見解でした。
弁才天は七福神として、紅一点の女神として庶民の神様となりました。御利益的には金運・財運・芸事の神様とされました。しかし、本来は才能の神、弁舌の神であり、うんと古い時代は「怨敵退散」の御利益があるとされてきました。
そういう歴史を踏まえると、聞きたくもない願いを聞いた可能性も否定できません。その傷んだ姿からすれば、かなりご苦労された弁天様ではないか?と推測しました。
さて、こうして完成した弁才天像。開眼の儀式もA和尚に御尽力頂き、無事終わりました。
現在、毎日お参りしておりますが、ここまでこれたのも、遠方よりお経を上げに来てくれたお坊様、また丁寧な直しをして頂いた仏師さん、私の行動を理解してくれた家族、そして直すチャンスを与えて下さった弁天様のお陰です。何が一つ欠けてても成し遂げれなかったでしょう。本当にありがとうございました。
ただ、これからがまた大変でもあります。頂いた御縁をどうするか、どう繋げていくか、そして私自身も心の勉強をしなければと思う今日この頃です。
今回のテーマはこれにて終わりです。最後まで読んで頂きありがとうございました。
2021-02-08
◆弁才天像の修理に至るまでの経緯 ~弁天様との御縁の話 その6~
前回その5はこちら
修理に出すにあたり、何かの役に立つかなと記録をとることにしました。発遣供養をした後に撮影です。

修理に出す前の厨子。修理を終えた今見ると、かなり酷い状態でした。厚めに塗ってある漆はあちこち剥がれています。
厨子の上部、丸みのある所は真っ白に光が反射してますが、これは埃ですね。
中の弁才天像とほぼ同時代、当初から仏像と一緒にあったと思われる厨子ですので、どういう直しをするか悩みましたが、仏師さんと相談し、漆を全部はいで塗りなおすことにしました。
完成したのがこちらの画像です。

もう新品同然になりました。蝶番などの金具類は新品に見えますが、当時のものを磨いてもらいました。ピカピカです。

扉の内側もボロボロです。向かって左側です。これが修理後は・・・

こうなりました。

向かって右側も酷い状態です、金箔もしわしわ。剥がれもあります。

ピカピカですね。扉の上部も一部欠損しており、閉めても中が見えるような状態でしたがこれも修理してもらいました。
職人の技術は凄いなと思いました。宇賀弁才天像と縁を頂いてから、この写真を撮る時でも気づきませんでしたが、「修理が終わったよ」と電話をもらった時、「厨子についてた輪っかはどうしよう?」と言われました。
「あれ、輪っかなんかついてたっけ?」
「取りに来た時に説明しますよ」
という事で、説明を聞いたら、こんな所にあったのかという場所にありました。

写真はないかなとよく見たら、ありましたね。画像黄色の〇の部分ですね。厨子に施してありました。
「この厨子についていた輪っかだけど、どうします?元通りにするなら今から穴を開けて取り付けますよ」
漆を塗る時は、一度金属部品を全部外してから行うので、こういうことになったのでしょう。
「厨子の上に輪っかを施すというのは、結構あること?あんまり見た記憶がないけど・・・」
「少ないけど、修理をやってるとたまにありますよ。小さい厨子だし、おそらく携帯用、よく持ち運んでいた弁天様じゃないかな?」
と言う見解でした。
なるほどなと思いました。言われるまで疑問をもつことすら無かったですが、確かに寺院で一か所にずっと置かれて祀られているのであれば、これほどボロボロにはならないでしょう。厨子の上下が酷く剥がれているのは何かの荷物と一緒に紐二本でぐるぐるとよく縛っていたのかも・・・。落ちないようにきつく縛ったので、扉の上部が欠けてしまったのでしょう。
寺を持たぬ修験者か僧侶か。あるいは他所で拝むことを生業とする行者さんの念持仏だったのかもしれません。一般の人がお守りで持ち歩いていたとは思えないし・・・。
しばし考えましたが、輪っかは取り付けるのを止めることにしました。
つけないことで、持ち運びする厨子ではなく、一か所で祀る為の厨子になるかなと思ったからです。
次回は弁才天像についてご紹介します。お読み頂きありがとうございました。
紅葉屋呉服店はこちらまで
修理に出すにあたり、何かの役に立つかなと記録をとることにしました。発遣供養をした後に撮影です。

修理に出す前の厨子。修理を終えた今見ると、かなり酷い状態でした。厚めに塗ってある漆はあちこち剥がれています。
厨子の上部、丸みのある所は真っ白に光が反射してますが、これは埃ですね。
中の弁才天像とほぼ同時代、当初から仏像と一緒にあったと思われる厨子ですので、どういう直しをするか悩みましたが、仏師さんと相談し、漆を全部はいで塗りなおすことにしました。
完成したのがこちらの画像です。

もう新品同然になりました。蝶番などの金具類は新品に見えますが、当時のものを磨いてもらいました。ピカピカです。

扉の内側もボロボロです。向かって左側です。これが修理後は・・・

こうなりました。

向かって右側も酷い状態です、金箔もしわしわ。剥がれもあります。

ピカピカですね。扉の上部も一部欠損しており、閉めても中が見えるような状態でしたがこれも修理してもらいました。
職人の技術は凄いなと思いました。宇賀弁才天像と縁を頂いてから、この写真を撮る時でも気づきませんでしたが、「修理が終わったよ」と電話をもらった時、「厨子についてた輪っかはどうしよう?」と言われました。
「あれ、輪っかなんかついてたっけ?」
「取りに来た時に説明しますよ」
という事で、説明を聞いたら、こんな所にあったのかという場所にありました。

写真はないかなとよく見たら、ありましたね。画像黄色の〇の部分ですね。厨子に施してありました。
「この厨子についていた輪っかだけど、どうします?元通りにするなら今から穴を開けて取り付けますよ」
漆を塗る時は、一度金属部品を全部外してから行うので、こういうことになったのでしょう。
「厨子の上に輪っかを施すというのは、結構あること?あんまり見た記憶がないけど・・・」
「少ないけど、修理をやってるとたまにありますよ。小さい厨子だし、おそらく携帯用、よく持ち運んでいた弁天様じゃないかな?」
と言う見解でした。
なるほどなと思いました。言われるまで疑問をもつことすら無かったですが、確かに寺院で一か所にずっと置かれて祀られているのであれば、これほどボロボロにはならないでしょう。厨子の上下が酷く剥がれているのは何かの荷物と一緒に紐二本でぐるぐるとよく縛っていたのかも・・・。落ちないようにきつく縛ったので、扉の上部が欠けてしまったのでしょう。
寺を持たぬ修験者か僧侶か。あるいは他所で拝むことを生業とする行者さんの念持仏だったのかもしれません。一般の人がお守りで持ち歩いていたとは思えないし・・・。
しばし考えましたが、輪っかは取り付けるのを止めることにしました。
つけないことで、持ち運びする厨子ではなく、一か所で祀る為の厨子になるかなと思ったからです。
次回は弁才天像についてご紹介します。お読み頂きありがとうございました。
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