2017-10-17
◆名古屋城と魔除けについて 第9回(一時閉幕)
◎調べてみたら大変だった。
「田」の字の魔除け・封じの発想が城下町の構想に取り入れられたのでは?という考察を前回したが、考えるうち、こういう意味もあるかもと頭に浮かんだものがある。
「田」を分解すると「十」と「□」になる。
「十」は呪い的な要素が古くからあると前回述べた。
海外ドラマの「スーパーナチュラル」というのがある。これは簡単に言えば悪霊や怪物を倒す仕事をしている兄弟の話だが、昔観たその話の中で、悪魔を呼び出すのに、交差点の中に呪物を埋めて呪文を唱えると悪魔が現れるという話があった。
さすがに西洋魔術まで調べてはいないが、この話は元になった昔話、黒魔術的なものがあるように思う。
日本でも辻には魔物が出ると考えられていることから、洋の東西を問わず「十」という重なる形には、この世とあの世の境という意味があるのだ。
その魔が出る「十」をしっかり囲むのが「□」、合わせると「田」なのである。
名古屋城の城下町に話を戻そう。

名古屋の城下町の様子を描いた地図で最も古いのが元禄7年(1694年)に描かれたこれ。
着目した庶民のブロックを拡大すると・・・

きっちり四角になっている。碁盤目というそう。中央に寺社が配置されている事がわかる。
しかし、思うよりは寺社が少ないなと思い、さらに古い地図はないかと調べたら、名古屋城下は大火で燃えたことがあると分かった。それが万治三年(1660年)だ。この時に燃えた寺社が沢山あったかもしれない。
どこかに築城当時の、城下町の様子が分かるものがないかと探したら出てきた。

この地図自体は元文三年(1738年)に描かれたものだが、その地図の中に、「万治の大火」以前の城下の様子が少しわかる地図が書いてあった。築城当時の名古屋城下の様子を調べ、復元して残した人がいたのだ。(どなたか知りませんが、ありがとうございます)
かなりの数のブロック中央に、空き地があることが分かる。これ全て寺社が建っていたと私は思う。
大須の寺町、そして一般庶民の住んでいた「田の字の区域」と寺社をもって、古代の名古屋の神の怒りが城にこないように造ったのが城の南側の巨大な魔除け・結界だ。
今回のブログテーマは、書き始めて気づいたが、謎がまだまだ残っている。
名古屋城から見て鬼門や裏鬼門には魔除け目的の寺社があると思うし、城の東にも大須のような大きな寺町がある。この二つは実際に足を使って調べないといけない。城の東の寺町などは、絶対何か意味があるはずだ。
また今回取り上げた城の南側、錦町も探索目的で歩いたことはないので、これも再確認で行かねばならない。
これらを調べて初めて、今回のブログテーマ、名古屋の巨大な魔除けの謎は完結しますが、ちょっといつ行けるか分からないので、今回を持って一時閉幕したいと思います。
いつか再開します。
とりあえずおしまい。
「田」の字の魔除け・封じの発想が城下町の構想に取り入れられたのでは?という考察を前回したが、考えるうち、こういう意味もあるかもと頭に浮かんだものがある。
「田」を分解すると「十」と「□」になる。
「十」は呪い的な要素が古くからあると前回述べた。
海外ドラマの「スーパーナチュラル」というのがある。これは簡単に言えば悪霊や怪物を倒す仕事をしている兄弟の話だが、昔観たその話の中で、悪魔を呼び出すのに、交差点の中に呪物を埋めて呪文を唱えると悪魔が現れるという話があった。
さすがに西洋魔術まで調べてはいないが、この話は元になった昔話、黒魔術的なものがあるように思う。
日本でも辻には魔物が出ると考えられていることから、洋の東西を問わず「十」という重なる形には、この世とあの世の境という意味があるのだ。
その魔が出る「十」をしっかり囲むのが「□」、合わせると「田」なのである。
名古屋城の城下町に話を戻そう。

名古屋の城下町の様子を描いた地図で最も古いのが元禄7年(1694年)に描かれたこれ。
着目した庶民のブロックを拡大すると・・・

きっちり四角になっている。碁盤目というそう。中央に寺社が配置されている事がわかる。
しかし、思うよりは寺社が少ないなと思い、さらに古い地図はないかと調べたら、名古屋城下は大火で燃えたことがあると分かった。それが万治三年(1660年)だ。この時に燃えた寺社が沢山あったかもしれない。
どこかに築城当時の、城下町の様子が分かるものがないかと探したら出てきた。

この地図自体は元文三年(1738年)に描かれたものだが、その地図の中に、「万治の大火」以前の城下の様子が少しわかる地図が書いてあった。築城当時の名古屋城下の様子を調べ、復元して残した人がいたのだ。(どなたか知りませんが、ありがとうございます)
かなりの数のブロック中央に、空き地があることが分かる。これ全て寺社が建っていたと私は思う。
大須の寺町、そして一般庶民の住んでいた「田の字の区域」と寺社をもって、古代の名古屋の神の怒りが城にこないように造ったのが城の南側の巨大な魔除け・結界だ。
今回のブログテーマは、書き始めて気づいたが、謎がまだまだ残っている。
名古屋城から見て鬼門や裏鬼門には魔除け目的の寺社があると思うし、城の東にも大須のような大きな寺町がある。この二つは実際に足を使って調べないといけない。城の東の寺町などは、絶対何か意味があるはずだ。
また今回取り上げた城の南側、錦町も探索目的で歩いたことはないので、これも再確認で行かねばならない。
これらを調べて初めて、今回のブログテーマ、名古屋の巨大な魔除けの謎は完結しますが、ちょっといつ行けるか分からないので、今回を持って一時閉幕したいと思います。
いつか再開します。
とりあえずおしまい。
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2017-10-15
◆名古屋城と魔除けについて考える 第8回
◎「田」の字の謎 パート2
田の字から連想するもの。それは稲、米だろう。
古代の豪族にとって、自分達の勢力を維持する為に絶対必要なものが二つあった。
一つは米、もう一つが鉄である。
米は安定的な食糧、生命線であるし、銅を上回る強度を持つ鉄製の武具は、戦にはなくてはならないものだからだ。
そして日本にはこの二つ、稲(農業神)と鉄(鍛冶神)、両方の性質を持つ、大変強い戦いの神がいる。
八幡神だ。八幡神は皇室の御先祖にも連なる神様で、別名「応神天皇」とも云う。日本では稲荷神の次に多く祀られていると言われ、全国には4万社あると云われる。およそ全神社の3分の1に当たる。主に八幡社と呼ばれる神社だ。
歴代の天皇で「神」の字を持つ天皇は3名。神武天皇、崇神天皇、そして八幡神こと応神天皇である。
応神天皇は第15代天皇で5世紀前後頃の天皇だ。母親の神功皇后も神の字を持つ人物で、現在の八幡社には応神天皇と神功皇后も一緒に祀られている。
多くの史家が歴史時代の始まりであるとし、神功皇后、応神天皇期をもって日本の国家を確立したとされている。親子揃って強い神様なのだ。
元寇の時、モンゴルから攻めてきた軍団を神風で蹴散らせたのも八幡神だという言い伝えや、武家の世になると源頼朝も鶴岡八幡宮を建立していることから、何時からか戦闘の神として祀られていたのだと思う。
そんな強い応神天皇は別名「誉田別尊(ホンダワケノミコト)」ともいう。田の字が入っているのだ。
私はあの田の字は応神天皇という意味もあるのかもと考えた。

仮にそうだとすると、八幡神の力を込めたものを地面に埋めるというのは、何かを抑えるという意味も出て来る。
田の字のかわらけを埋めるという所作を仏教ではない呪いだとすると、そこには供養するという発想はない。
つまり、かわらけを埋める理由は、おそらく何かの封じだ。非業な死を遂げた誰かか、あるいは地の底にいるとした土地神か。
自分達の住む住居か、生活に直結する大切な場所の土地神(又は怨霊神)を、より強い力で押さえつける、封じる為に用いられたのが田の字なのである。
あるいは、命を繋げる米そのものを神の恵み、神の力が宿るものとしそれを生む田そのものを神としていたのかもしれない。
そしてこの「田」という形そのものにも意味があるような気がしてきた。
それは田という文字に指を置いて、その漢字を構成する線の何処から辿っても、何処に行っても終わりにならない、堂々巡り、出れないという意味もあるのでは?ということだ。
天海僧正が行った名古屋の街造り。ブロック毎に区分けされ、どの路地から見ても正面になる、そして念入りに中央に寺社を置くというのは、この田の字の理屈が背景にあるのでは?と思えるのである。
※田の字は中央が重なる十字。十字は洋の東西を問わず、最も古い呪い的なシンボルマーク。卍とか。また日本では辻(交差点)には魔物が出ると信じられ、そこには石仏などが祀られていることもある。
田の字から連想するもの。それは稲、米だろう。
古代の豪族にとって、自分達の勢力を維持する為に絶対必要なものが二つあった。
一つは米、もう一つが鉄である。
米は安定的な食糧、生命線であるし、銅を上回る強度を持つ鉄製の武具は、戦にはなくてはならないものだからだ。
そして日本にはこの二つ、稲(農業神)と鉄(鍛冶神)、両方の性質を持つ、大変強い戦いの神がいる。
八幡神だ。八幡神は皇室の御先祖にも連なる神様で、別名「応神天皇」とも云う。日本では稲荷神の次に多く祀られていると言われ、全国には4万社あると云われる。およそ全神社の3分の1に当たる。主に八幡社と呼ばれる神社だ。
歴代の天皇で「神」の字を持つ天皇は3名。神武天皇、崇神天皇、そして八幡神こと応神天皇である。
応神天皇は第15代天皇で5世紀前後頃の天皇だ。母親の神功皇后も神の字を持つ人物で、現在の八幡社には応神天皇と神功皇后も一緒に祀られている。
多くの史家が歴史時代の始まりであるとし、神功皇后、応神天皇期をもって日本の国家を確立したとされている。親子揃って強い神様なのだ。
元寇の時、モンゴルから攻めてきた軍団を神風で蹴散らせたのも八幡神だという言い伝えや、武家の世になると源頼朝も鶴岡八幡宮を建立していることから、何時からか戦闘の神として祀られていたのだと思う。
そんな強い応神天皇は別名「誉田別尊(ホンダワケノミコト)」ともいう。田の字が入っているのだ。
私はあの田の字は応神天皇という意味もあるのかもと考えた。

仮にそうだとすると、八幡神の力を込めたものを地面に埋めるというのは、何かを抑えるという意味も出て来る。
田の字のかわらけを埋めるという所作を仏教ではない呪いだとすると、そこには供養するという発想はない。
つまり、かわらけを埋める理由は、おそらく何かの封じだ。非業な死を遂げた誰かか、あるいは地の底にいるとした土地神か。
自分達の住む住居か、生活に直結する大切な場所の土地神(又は怨霊神)を、より強い力で押さえつける、封じる為に用いられたのが田の字なのである。
あるいは、命を繋げる米そのものを神の恵み、神の力が宿るものとしそれを生む田そのものを神としていたのかもしれない。
そしてこの「田」という形そのものにも意味があるような気がしてきた。
それは田という文字に指を置いて、その漢字を構成する線の何処から辿っても、何処に行っても終わりにならない、堂々巡り、出れないという意味もあるのでは?ということだ。
天海僧正が行った名古屋の街造り。ブロック毎に区分けされ、どの路地から見ても正面になる、そして念入りに中央に寺社を置くというのは、この田の字の理屈が背景にあるのでは?と思えるのである。
※田の字は中央が重なる十字。十字は洋の東西を問わず、最も古い呪い的なシンボルマーク。卍とか。また日本では辻(交差点)には魔物が出ると信じられ、そこには石仏などが祀られていることもある。
2017-10-13
◆名古屋城と魔除けについて考える 第7回
◎「田」の字の謎
ブロック単位で区分けされた城下町。そのブロックの中心には寺社が設けられた。
この話を知ってから、私は以前博物館で見た土器を思い出していた。
2005年に愛知県安城市の歴史博物館で開催された「畏きものたち」という展示会だ。
その中に研究員の中でも謎とされている不思議な墨書土器があった。

同市の彼岸田遺跡から出土した90数点にのぼる。
8世紀から9世紀に作られた土器に「田」の字が書かれているのだ。
おそらく何らかの呪術的行為であるが、何故「田」の字かは、どんな意味があるかは分からないと言う。

この田の字の土器、安城市だけで出てくるわけではない。愛知県には他の地域でも出土例がある。
こういった墨書土器には他の字も確認されているが、「田」の字の例が多い。
奈良時代から平安時代にかけての一般の人の識字率は相当低く、読めない人ばかりだったと思う。だからこれを書いた人は教育を受けた、田の字の意味を知っていた人物ということになる。
奈良から平安初期という時代は、まだ仏教も一般の人には縁が少ない時代だ。その当時は貴族だけが学べる教えで、貴族達は仏教から救いを求めていた。
やがて最澄や空海が唐から輸入した密教の、加持・祈祷と言った仏教の奇跡的な力は、朝廷側に重要視されることになる。しかし、この田の字の土器の場合、密教がまだ広まっていない時代だと思う。
仏教でも陰陽道でもない呪いの一種なのである。
現に時代が経って15世紀~17世紀になると、同様の土器の出土例を見るに、田の字の代わりに仏さまの名前を書いたり、陰陽道的な文様に変わっている。

また、参考にした展示会「畏きものたち」の図録には、「田」の字の土器の破片は、元々の形は〇〇であったという記載は無かったが、思うにこれは「かわらけ(小皿)」だろう。
滋賀県の琵琶湖内にある竹生島の弁才天をお参りに行った方は気づいたかもしれないが、あそこには高い場所から斜面に向けて願いを込めてかわらけを投げるというものがある。
全国を見渡せば、似たような風習が残る寺社は多いが、これはやはり「かわらけ」そのものが呪いに用いるものと言うことだ。
密教や陰陽道が知られていない時期に行われた田の字のお呪い・・・。
となると、考えれるのは田の字のかわらけとは神道的なお呪いということだ。
神道では言霊と言って、言葉には現実を変えうる不思議な力があるとし、また言葉そのものが神であると考えていた。音で発する目には見えない言霊を、目に見える形にしたものが文字である。
文字と言葉は同じ、どちらも言霊の力があるのだ。「田」の字には他の字にはない強い言霊の力があるのである。
一体この田の字にはどんな意味があるのか?
まだ誰も分かっていないこの謎を自分なりに解釈した時、この田の字の真意が、名古屋城下の町造りに関係しているのでは?と思えてきた。
長くなってきたので今回はここまで。次回は田の字の謎パート2です。(あくまで私の説です)
ブロック単位で区分けされた城下町。そのブロックの中心には寺社が設けられた。
この話を知ってから、私は以前博物館で見た土器を思い出していた。
2005年に愛知県安城市の歴史博物館で開催された「畏きものたち」という展示会だ。
その中に研究員の中でも謎とされている不思議な墨書土器があった。

同市の彼岸田遺跡から出土した90数点にのぼる。
8世紀から9世紀に作られた土器に「田」の字が書かれているのだ。
おそらく何らかの呪術的行為であるが、何故「田」の字かは、どんな意味があるかは分からないと言う。

この田の字の土器、安城市だけで出てくるわけではない。愛知県には他の地域でも出土例がある。
こういった墨書土器には他の字も確認されているが、「田」の字の例が多い。
奈良時代から平安時代にかけての一般の人の識字率は相当低く、読めない人ばかりだったと思う。だからこれを書いた人は教育を受けた、田の字の意味を知っていた人物ということになる。
奈良から平安初期という時代は、まだ仏教も一般の人には縁が少ない時代だ。その当時は貴族だけが学べる教えで、貴族達は仏教から救いを求めていた。
やがて最澄や空海が唐から輸入した密教の、加持・祈祷と言った仏教の奇跡的な力は、朝廷側に重要視されることになる。しかし、この田の字の土器の場合、密教がまだ広まっていない時代だと思う。
仏教でも陰陽道でもない呪いの一種なのである。
現に時代が経って15世紀~17世紀になると、同様の土器の出土例を見るに、田の字の代わりに仏さまの名前を書いたり、陰陽道的な文様に変わっている。

また、参考にした展示会「畏きものたち」の図録には、「田」の字の土器の破片は、元々の形は〇〇であったという記載は無かったが、思うにこれは「かわらけ(小皿)」だろう。
滋賀県の琵琶湖内にある竹生島の弁才天をお参りに行った方は気づいたかもしれないが、あそこには高い場所から斜面に向けて願いを込めてかわらけを投げるというものがある。
全国を見渡せば、似たような風習が残る寺社は多いが、これはやはり「かわらけ」そのものが呪いに用いるものと言うことだ。
密教や陰陽道が知られていない時期に行われた田の字のお呪い・・・。
となると、考えれるのは田の字のかわらけとは神道的なお呪いということだ。
神道では言霊と言って、言葉には現実を変えうる不思議な力があるとし、また言葉そのものが神であると考えていた。音で発する目には見えない言霊を、目に見える形にしたものが文字である。
文字と言葉は同じ、どちらも言霊の力があるのだ。「田」の字には他の字にはない強い言霊の力があるのである。
一体この田の字にはどんな意味があるのか?
まだ誰も分かっていないこの謎を自分なりに解釈した時、この田の字の真意が、名古屋城下の町造りに関係しているのでは?と思えてきた。
長くなってきたので今回はここまで。次回は田の字の謎パート2です。(あくまで私の説です)
2017-10-09
◆名古屋城と魔除けについて考える 第6回
◎街単位の巨大な結界
ブラタモリで知ったのは名古屋の錦町についてのことだった。この一帯は元々の名古屋城のメインの城下町である。
鳥目線で上から見れば分かるが、ビルが建つ場所は将棋盤のように規則正しく、ブロック単位で構成されている。
番組では、秀吉が造った大阪城の城下町との違いを紹介していた。
大阪の城下もブロック単位で分かれてはいるが、家の建ち方が違うのである。図を用いて簡単に紹介すると、

大阪の場合、一つのブロックは縦割に土地が仕切られ長細い家が建つようになっている。これに対して名古屋の場合は、

一つのブロックが、縦割ではなく中央に空間(グレー色の箇所)を開け、それをぐるっと囲むように家が建っているのだ。
そしてこの空いた空間には寺社を建立した。
大阪の場合は店の正面が最大二方向に対し、名古屋の場合は4方向に店の入り口があることになる。つまりどの道を通っても店があるという造り方になっているのだ。
賑わうという面でみても、これは活気が出る街造りだと思うが、敵が攻めてきた場合、どこを見ても正面であるので迷路のようにも感じるという効果もあるのだろう。
また霊的な目線で見れば、各ブロックごとに神社や寺を設けていれば、徳川家に敵意をもったモノが、寺町の結界を越えて城下に侵入しても、何処を向いても同じような景色に、多数ある寺社の力によって、追い出されるかずっと迷って出られなくなるように思う。城には辿り着けないのだ。
仕事の関係でこの辺りにはよく訪れるが、言われて見れば寺社が多い。
今回のブログに併せて街並みが分かる様な写真を撮ろうかと軽く考えていた。
だが、現地に寺社をお参り・撮影目的で訪れたらよーく分かったが、片手間ではとてもできない、一筋縄ではいかない地域だった。
これは休日を使ってがっつり調査しないといけないレベルだ。
という訳で、次回以降に一度足を使って調べてみたいと思います。
ブラタモリで知ったのは名古屋の錦町についてのことだった。この一帯は元々の名古屋城のメインの城下町である。
鳥目線で上から見れば分かるが、ビルが建つ場所は将棋盤のように規則正しく、ブロック単位で構成されている。
番組では、秀吉が造った大阪城の城下町との違いを紹介していた。
大阪の城下もブロック単位で分かれてはいるが、家の建ち方が違うのである。図を用いて簡単に紹介すると、

大阪の場合、一つのブロックは縦割に土地が仕切られ長細い家が建つようになっている。これに対して名古屋の場合は、

一つのブロックが、縦割ではなく中央に空間(グレー色の箇所)を開け、それをぐるっと囲むように家が建っているのだ。
そしてこの空いた空間には寺社を建立した。
大阪の場合は店の正面が最大二方向に対し、名古屋の場合は4方向に店の入り口があることになる。つまりどの道を通っても店があるという造り方になっているのだ。
賑わうという面でみても、これは活気が出る街造りだと思うが、敵が攻めてきた場合、どこを見ても正面であるので迷路のようにも感じるという効果もあるのだろう。
また霊的な目線で見れば、各ブロックごとに神社や寺を設けていれば、徳川家に敵意をもったモノが、寺町の結界を越えて城下に侵入しても、何処を向いても同じような景色に、多数ある寺社の力によって、追い出されるかずっと迷って出られなくなるように思う。城には辿り着けないのだ。
仕事の関係でこの辺りにはよく訪れるが、言われて見れば寺社が多い。
今回のブログに併せて街並みが分かる様な写真を撮ろうかと軽く考えていた。
だが、現地に寺社をお参り・撮影目的で訪れたらよーく分かったが、片手間ではとてもできない、一筋縄ではいかない地域だった。
これは休日を使ってがっつり調査しないといけないレベルだ。
という訳で、次回以降に一度足を使って調べてみたいと思います。
2017-10-06
◆名古屋城と魔除けについて考える 第五回
◎天子南面す (てんしなんめんす)
名古屋台地に建つ名古屋城も四神相応の地を選んでいる。
名古屋城は北側に建ち、城下町の殆どは城の南に固まっている。これは平野がそうなっているからだが、昔から偉い人、天皇や権力者は北に座し、南に向くと言われる。
これを「天子南面す」と云う。これは天体の中心である北極星を背負うものは、神であるという意味がある。
名古屋の地の北に建ち、南の城下町を見る名古屋城は、徳川が最高権力者であるということを意味する。
これは理屈に合っている。至極当然のことだ。
しかし、この理屈故に大須観音やその近くの七つ寺、清州から引っ越された多くの寺院が一か所に纏められ寺町となったのだと私は考える。
この場所に寺町が出来た切っ掛けは、一説にはいざ有事の時にここで踏みとどまる為の、要塞的な場所とも言われるが、どうもそれだけとは思えない。
何故、現在の大須観音周辺に寺院が寄せ集められたのか?
それはこの地に尾張氏に所縁のある、古代豪族の古墳があったからだ。

上の画像は大須演芸場の裏にある前方後円墳である。現在の姿は半分壊れ円墳になっている。
この古墳のある地に立ち四方を見渡せば寺社で固められているのが分かる。

こちらは烏枢沙摩明王を本尊として祀るお寺。

浅間神社もあった。
公園の古墳は、元々寺の敷地内にあったことも分かった。

しかも公園内の看板によれば、嘗てこの辺りには大きな古墳がいくつも存在していたこも・・・。

スケートのまおちゃんが、現役時代よく練習していたアイススケート場の地にも、嘗ては大きな前方後円墳があったのだ。


そう、大須観音周辺は古墳群が存在していたのだ。家康公の時代よりも遥かに古い霊地だったのである。
通常、当時の街造りにおいて最も気をつけねばならないのが、鬼門と裏鬼門の守りをどうするかという問題だ。
当然、名古屋城もそれには留意しているが、天海僧正が名古屋の街造りにおいて、最も気を使ったのが現在の大須観音周辺、古代の古墳群が残る霊地だったのだと思う。
家康公は名古屋城下から離れた北区の古墳群は、石垣の石を取る為壊しているが、実際の城下町の古墳はあまり手をつけていない節がある。気を使っていたようなのだ。
名古屋の新たな支配者になる徳川家を、尾張の元々の氏神とも言える豪族達の墓を見下ろす構図になる名古屋城を、彼らは許してくれるのか?敵意の対象になるのでは?と思ったのだ。
しかも古墳群の更に南には、三種の神器を神として祀る熱田神宮もあるのである。
地元の神々を敵に回してはとても敵わない・・・。
故に、神をも救うと考えられた仏教の仏達を「これでもか」と言わんばかりに集めたのが、この寺町誕生の切っ掛けだったのではと思う。城へ向かう荒ぶる力への対抗、一種の霊的バリケードである。
この寺町の要は、大須観音と七つ寺だと思う。
大須観音の本尊の出自を辿ると、大阪の四天王寺(聖徳太子の建てた最初の寺)に繋がる。
現在は戦争で焼失してしまったが、七つ寺の本尊は奈良時代の行基由来の仏像だった。
どちらも名門、有名であり、双方とも力のありそうな仏像を寺毎移築しているのだ。
ここまでは実際に足を使って調べて導いた答えだが、南方面の守りはこの寺町だけではなかった。
次回はブラタモリで知った話を元に続けてまいります。
名古屋台地に建つ名古屋城も四神相応の地を選んでいる。
名古屋城は北側に建ち、城下町の殆どは城の南に固まっている。これは平野がそうなっているからだが、昔から偉い人、天皇や権力者は北に座し、南に向くと言われる。
これを「天子南面す」と云う。これは天体の中心である北極星を背負うものは、神であるという意味がある。
名古屋の地の北に建ち、南の城下町を見る名古屋城は、徳川が最高権力者であるということを意味する。
これは理屈に合っている。至極当然のことだ。
しかし、この理屈故に大須観音やその近くの七つ寺、清州から引っ越された多くの寺院が一か所に纏められ寺町となったのだと私は考える。
この場所に寺町が出来た切っ掛けは、一説にはいざ有事の時にここで踏みとどまる為の、要塞的な場所とも言われるが、どうもそれだけとは思えない。
何故、現在の大須観音周辺に寺院が寄せ集められたのか?
それはこの地に尾張氏に所縁のある、古代豪族の古墳があったからだ。

上の画像は大須演芸場の裏にある前方後円墳である。現在の姿は半分壊れ円墳になっている。
この古墳のある地に立ち四方を見渡せば寺社で固められているのが分かる。

こちらは烏枢沙摩明王を本尊として祀るお寺。

浅間神社もあった。
公園の古墳は、元々寺の敷地内にあったことも分かった。

しかも公園内の看板によれば、嘗てこの辺りには大きな古墳がいくつも存在していたこも・・・。

スケートのまおちゃんが、現役時代よく練習していたアイススケート場の地にも、嘗ては大きな前方後円墳があったのだ。


そう、大須観音周辺は古墳群が存在していたのだ。家康公の時代よりも遥かに古い霊地だったのである。
通常、当時の街造りにおいて最も気をつけねばならないのが、鬼門と裏鬼門の守りをどうするかという問題だ。
当然、名古屋城もそれには留意しているが、天海僧正が名古屋の街造りにおいて、最も気を使ったのが現在の大須観音周辺、古代の古墳群が残る霊地だったのだと思う。
家康公は名古屋城下から離れた北区の古墳群は、石垣の石を取る為壊しているが、実際の城下町の古墳はあまり手をつけていない節がある。気を使っていたようなのだ。
名古屋の新たな支配者になる徳川家を、尾張の元々の氏神とも言える豪族達の墓を見下ろす構図になる名古屋城を、彼らは許してくれるのか?敵意の対象になるのでは?と思ったのだ。
しかも古墳群の更に南には、三種の神器を神として祀る熱田神宮もあるのである。
地元の神々を敵に回してはとても敵わない・・・。
故に、神をも救うと考えられた仏教の仏達を「これでもか」と言わんばかりに集めたのが、この寺町誕生の切っ掛けだったのではと思う。城へ向かう荒ぶる力への対抗、一種の霊的バリケードである。
この寺町の要は、大須観音と七つ寺だと思う。
大須観音の本尊の出自を辿ると、大阪の四天王寺(聖徳太子の建てた最初の寺)に繋がる。
現在は戦争で焼失してしまったが、七つ寺の本尊は奈良時代の行基由来の仏像だった。
どちらも名門、有名であり、双方とも力のありそうな仏像を寺毎移築しているのだ。
ここまでは実際に足を使って調べて導いた答えだが、南方面の守りはこの寺町だけではなかった。
次回はブラタモリで知った話を元に続けてまいります。
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