2017-03-28
◆考察・「天神山町」 最終回 ~天神山の謎~
天神山中学の名前の由来になった天神社の神様は菅原道真公ではなく、武塔天神、即ち牛頭天王だったと思う。
天神様は、町内にぽつんとある祠で祀られる神様ではない。
小さな祠で祀られる時は別のちゃんとした神社の境内の一角に祀られる。

(富士浅間社の天神社)
例えば前々回紹介した西区浅間町の富士浅間神社には、御祭神の木花咲耶姫以外にも稲荷神を始めとした複数の神々が祭られている。

この祠は全部で六柱の神々が祀られている。神明社、八幡社、津島社などだ。
一つの祠で纏めて祀られているのに対し、天神様は単体で祀られている。やはり怨霊神であったことが関係しているのだろう。
現在確認できる天神社、天満宮はちゃんとした敷地で主祭神で祀られるか、祠形式の場合は他の神社の境内にきちんと祀られるのが天神様の特徴だ。
町内の一角にぽつんとあるような祀り方はしないのだ。
天神山中学の学区内には八坂神社という嘗ては牛頭天王を祀っていた神社が、今尚遺っていたりもする。そんな事例を踏まえて考えると、やはり天神山町の町名の由来は、天神様ではなく武塔天神(牛頭天王)だったと思う。
おそらく天神山中学創立の際、当時の社の表記には「天神社」としか書かれていなかったので、天神様だと解釈されたのだろう。
牛頭天王が天神様へと変わった背景には、明治政府の政策が関与しているかもしれない。明治政府は国家宗教を神道と決めたので、数多くのお寺や仏像が壊されたり、捨てられたりした。それと同時に神社の御祭神も記紀神話に登場するる神々に置き換えられた。
牛頭天王は仏教でもなく神道でもない、陰陽道に登場する神様だ。民間人に身近な神様だったが、この牛頭天王も、陰陽道ごと明治政府に壊され葬られてしまった。
天神山にあった天王社もこういった経緯で御祭神が入れ替わったのではと思う。
亀尾天王社を丁重に祀った徳川家や、庶民の屋根神様、牛頭天王が名古屋城下に多々祀られていたのは、陰陽道がかなり名古屋城下町に浸透していたことを物語っている。
学研「陰陽道の本」によれば、平安~鎌倉時代にかけて時の権力者に重宝された陰陽道であるが、だんだんと武家社会になるにつれ陰陽道は凋落していく。しかし江戸時代、天下をとった徳川家康は陰陽道を復活させたとあった。
私の住む土地は名古屋城下の町だが、古くは押切村と呼ばれていた。私はその押切村に陰陽師の住む一角があったと睨んでいる。
私の家には安倍晴明所縁の亀塚が遺っていたり、嘗ての押切村のとある場所には※申ヶ辻の建物があったりするからだ。また名古屋市やその隣のあま市には安倍晴明が蛇や草を封じたとの伝説が残るものもある。

(安倍晴明伝説が遺る「亀塚」)
名古屋市の歴史愛好家の中で、最大の謎と言われるのが押切村であると聞いたことがある。名古屋の城下町に関わらず、尾張藩が1800年代に作成した地図には白紙状態であったり、資料の類がほとんどないからだ。
これは押切に陰陽師の住む一角があったとすれば、あえて語らずだったと思える。
名古屋城下に陰陽師達の集落があれば、民間に陰陽道が流れていてもおかしくない。故に名古屋城下には牛頭天王が多いのだ。
以上、天神山の由来は天神様ではなく、牛頭天王の社がかつてあったと結論付けたが、唯一天神山の「山」の字が残った。しかし、これが天神社を菅原道真公と解釈したのならば説明はつく。
菅原道真公は九州の大宰府に流された後、天拝山に上り天上の神に祈りを捧げ天満自在天になったという伝説がある。その伝説にある、天拝山の「山」が天神山の「山」だと私は解釈した。
最初の疑問は天神山中学の学校名の由来はなんだろう?という素朴な疑問だったが、本人も思わなかった話がゴロゴロ出て来た。名古屋の歴史、徳川家康公、陰陽道と牛頭天王などなどもっと調べたいことが次々現れた。また天神様のことも知っているようで知らないことが沢山あった。
これから天神様に関する歴史や、名古屋城下に残る陰陽道の痕跡を調べたいと思います。
おしまい
※申ヶ辻の建物
家や囲いの一部分の申の方位(南西)の角を、あえて凹ませて作ること。魔除けになるとされた。陰陽道の発想です。
天神様は、町内にぽつんとある祠で祀られる神様ではない。
小さな祠で祀られる時は別のちゃんとした神社の境内の一角に祀られる。

(富士浅間社の天神社)
例えば前々回紹介した西区浅間町の富士浅間神社には、御祭神の木花咲耶姫以外にも稲荷神を始めとした複数の神々が祭られている。

この祠は全部で六柱の神々が祀られている。神明社、八幡社、津島社などだ。
一つの祠で纏めて祀られているのに対し、天神様は単体で祀られている。やはり怨霊神であったことが関係しているのだろう。
現在確認できる天神社、天満宮はちゃんとした敷地で主祭神で祀られるか、祠形式の場合は他の神社の境内にきちんと祀られるのが天神様の特徴だ。
町内の一角にぽつんとあるような祀り方はしないのだ。
天神山中学の学区内には八坂神社という嘗ては牛頭天王を祀っていた神社が、今尚遺っていたりもする。そんな事例を踏まえて考えると、やはり天神山町の町名の由来は、天神様ではなく武塔天神(牛頭天王)だったと思う。
おそらく天神山中学創立の際、当時の社の表記には「天神社」としか書かれていなかったので、天神様だと解釈されたのだろう。
牛頭天王が天神様へと変わった背景には、明治政府の政策が関与しているかもしれない。明治政府は国家宗教を神道と決めたので、数多くのお寺や仏像が壊されたり、捨てられたりした。それと同時に神社の御祭神も記紀神話に登場するる神々に置き換えられた。
牛頭天王は仏教でもなく神道でもない、陰陽道に登場する神様だ。民間人に身近な神様だったが、この牛頭天王も、陰陽道ごと明治政府に壊され葬られてしまった。
天神山にあった天王社もこういった経緯で御祭神が入れ替わったのではと思う。
亀尾天王社を丁重に祀った徳川家や、庶民の屋根神様、牛頭天王が名古屋城下に多々祀られていたのは、陰陽道がかなり名古屋城下町に浸透していたことを物語っている。
学研「陰陽道の本」によれば、平安~鎌倉時代にかけて時の権力者に重宝された陰陽道であるが、だんだんと武家社会になるにつれ陰陽道は凋落していく。しかし江戸時代、天下をとった徳川家康は陰陽道を復活させたとあった。
私の住む土地は名古屋城下の町だが、古くは押切村と呼ばれていた。私はその押切村に陰陽師の住む一角があったと睨んでいる。
私の家には安倍晴明所縁の亀塚が遺っていたり、嘗ての押切村のとある場所には※申ヶ辻の建物があったりするからだ。また名古屋市やその隣のあま市には安倍晴明が蛇や草を封じたとの伝説が残るものもある。

(安倍晴明伝説が遺る「亀塚」)
名古屋市の歴史愛好家の中で、最大の謎と言われるのが押切村であると聞いたことがある。名古屋の城下町に関わらず、尾張藩が1800年代に作成した地図には白紙状態であったり、資料の類がほとんどないからだ。
これは押切に陰陽師の住む一角があったとすれば、あえて語らずだったと思える。
名古屋城下に陰陽師達の集落があれば、民間に陰陽道が流れていてもおかしくない。故に名古屋城下には牛頭天王が多いのだ。
以上、天神山の由来は天神様ではなく、牛頭天王の社がかつてあったと結論付けたが、唯一天神山の「山」の字が残った。しかし、これが天神社を菅原道真公と解釈したのならば説明はつく。
菅原道真公は九州の大宰府に流された後、天拝山に上り天上の神に祈りを捧げ天満自在天になったという伝説がある。その伝説にある、天拝山の「山」が天神山の「山」だと私は解釈した。
最初の疑問は天神山中学の学校名の由来はなんだろう?という素朴な疑問だったが、本人も思わなかった話がゴロゴロ出て来た。名古屋の歴史、徳川家康公、陰陽道と牛頭天王などなどもっと調べたいことが次々現れた。また天神様のことも知っているようで知らないことが沢山あった。
これから天神様に関する歴史や、名古屋城下に残る陰陽道の痕跡を調べたいと思います。
おしまい
※申ヶ辻の建物
家や囲いの一部分の申の方位(南西)の角を、あえて凹ませて作ること。魔除けになるとされた。陰陽道の発想です。
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2017-03-26
◆考察・「天神山町」 その5 ~屋根神様~
名古屋城、本丸御殿の真南にあった亀尾天王社。
若宮八幡宮が現在地(中区栄)に移築されたのに対して亀尾天王社は残された。
また、家康公没後は隣に東照宮を祀ったことなど踏まえてを考えると、家康公始め歴代の藩主達も、牛頭天王には特別丁重に扱っていたことが分かる。
歴代の徳川の殿様達にとっては別格扱いの神様だったのだ。
では庶民の間ではどうだったのか?
前述の郷土の歴史を纏めた本「西区の歴史」にそれに関する件があった。屋根神(やねがみ)様についてのものだ。

画像の屋根神様は名古屋市西区那古野町にあるもの。円頓寺商店街の四間道と言った方が馴染みがある人も多いだろうか。
この屋根神様、名古屋市内の中でも西区はとりわけ多い。
この本が発行された昭和58年の情報だが、この時で129件確認されたとのこと。古いものだと明治時代ごろまで遡る。

中の御祭神はだいたい三柱の神様で構成されている。この画像の屋根神様の場合は、津島神社・熱田神宮・秋葉山だ。
熱田は尾張の氏神様ともいえる神様。秋葉山は熱田神宮の隣にあるお寺が有名だが、これは天狗で火伏せの神様だ。
そして津島神社は牛頭天王(素戔嗚尊)である。
屋根神様の中の御祭神は家によって違いがある。中には天照大神や八幡様、大日尊などもあったが、圧倒的に多いのが牛頭天王だった。
牛頭天王は疫病を齎す祟り神である。昔の人が如何に疫病をおそれたかが分かる。その裏返しが「私はあなたを敬っています」という意思表示だった。
その祀り方は、人が歩く目線以下でななく、頭の上の高い位置へと祭ったのだ。何かの拍子に機嫌を損ねてはならないという考えからだと思う。
名古屋市西区、名古屋城下町には、牛頭天王が隅々まで根を張った状態で祀られていた。牛頭天王の町と言っても差支えないほどだ。天下をとった徳川家康や、その後の藩主達、城下町の一般大衆、皆牛頭天王を敬い祀っていたのだ。
これは愛知県には京都の八坂神社と匹敵する歴史を誇る、津島神社があることや、名古屋の中心に1100年以上前に祀られた亀尾天王社があったからだろう。
牛頭天王は、昔の名古屋に住む人たちにとって、最も身近な神様の一柱だったのだ。
続く~
◎追記
若宮八幡宮について掘り下げようと思いましたが、もう少し調べてからにします。
若宮八幡宮が現在地(中区栄)に移築されたのに対して亀尾天王社は残された。
また、家康公没後は隣に東照宮を祀ったことなど踏まえてを考えると、家康公始め歴代の藩主達も、牛頭天王には特別丁重に扱っていたことが分かる。
歴代の徳川の殿様達にとっては別格扱いの神様だったのだ。
では庶民の間ではどうだったのか?
前述の郷土の歴史を纏めた本「西区の歴史」にそれに関する件があった。屋根神(やねがみ)様についてのものだ。

画像の屋根神様は名古屋市西区那古野町にあるもの。円頓寺商店街の四間道と言った方が馴染みがある人も多いだろうか。
この屋根神様、名古屋市内の中でも西区はとりわけ多い。
この本が発行された昭和58年の情報だが、この時で129件確認されたとのこと。古いものだと明治時代ごろまで遡る。

中の御祭神はだいたい三柱の神様で構成されている。この画像の屋根神様の場合は、津島神社・熱田神宮・秋葉山だ。
熱田は尾張の氏神様ともいえる神様。秋葉山は熱田神宮の隣にあるお寺が有名だが、これは天狗で火伏せの神様だ。
そして津島神社は牛頭天王(素戔嗚尊)である。
屋根神様の中の御祭神は家によって違いがある。中には天照大神や八幡様、大日尊などもあったが、圧倒的に多いのが牛頭天王だった。
牛頭天王は疫病を齎す祟り神である。昔の人が如何に疫病をおそれたかが分かる。その裏返しが「私はあなたを敬っています」という意思表示だった。
その祀り方は、人が歩く目線以下でななく、頭の上の高い位置へと祭ったのだ。何かの拍子に機嫌を損ねてはならないという考えからだと思う。
名古屋市西区、名古屋城下町には、牛頭天王が隅々まで根を張った状態で祀られていた。牛頭天王の町と言っても差支えないほどだ。天下をとった徳川家康や、その後の藩主達、城下町の一般大衆、皆牛頭天王を敬い祀っていたのだ。
これは愛知県には京都の八坂神社と匹敵する歴史を誇る、津島神社があることや、名古屋の中心に1100年以上前に祀られた亀尾天王社があったからだろう。
牛頭天王は、昔の名古屋に住む人たちにとって、最も身近な神様の一柱だったのだ。
続く~
◎追記
若宮八幡宮について掘り下げようと思いましたが、もう少し調べてからにします。
2017-03-25
◆考察・「天神山町」 その4 ~移築から再建・富士浅間社~
一度は移築されたものの、何かしら理由があり元の位置へまた神社を造る・・・。名古屋城の地にあった牛頭天王社はこんな経緯があったのではと思ったのは、前例があったからだ。
それが「富士浅間社」だ。

名古屋城下町にあるそんなに大きくないこの神社。

(以上二つの画像は西区の富士浅間社)
もともとこの場所に祀られていた神社ではない。400年ほど前に現在地へ移築された。最初に建っていた地は今で言う名古屋市の東区、「高岳(たかおか)」と呼ばれる交差点の近くにあった(以下「元浅間社」とします)。いや、移築後再建されたので、今でも残っている。

(以下画像は元浅間社)
応永5年(1398年)に前山源太夫なる人物が富士浅間社(静岡)を参拝し、その御分霊を勧請したとのこと。看板を読むに近郷稀に見る霊地だったそうだ。

徳川家康も参拝に来ている。そして名古屋城築城を切っ掛けにこの神社は名古屋城下町に移築が決定し壊されることになった。

浅野幸長が社域に普請小屋を設けたため、神社は移築されたと云う。
元浅間社の境内には来歴はよく分からない石が今でも残っている。

赤い桝形は一種のトレードマークか。石垣用ということで結構な大きさがある。

この石は理由があって、元浅間社に戻された。素人目に見ても石垣としては十分使えそうな感じだったが、何か事情があり戻され埋められたのだ。
話は変わるが名古屋市の北区はかつて「古墳百墳」といわれるほど古墳があったが、現在はかなり少なくなっている。これ、実は家康公の命令を受けた加藤清正により、相当数の古墳が壊されたことによる。
古墳の中には石室とよばれる遺体を納める部屋があるが、どうもその石室に使われた石を目当てに古墳を壊していたようだ。
名古屋城は当時の例で見てもかなり大きな天守閣だ。想像以上に材料をかき集めるのに苦労したと思う。巨大な天守閣を支える石垣も凄い量が集められた。しかし、名古屋城が建つ地は山などない場所。掘れば石が出る所など近隣にはない。
故に、掘れば確実に石が出てくると分かっている箇所、古墳がターゲットになったのだ。
元浅間社の来歴には何も記されていないが、私はこの元浅間社の位置に古墳があったのではと考えている。古来からそういう場所は霊地になったり寺社が建てられることは多いからだ。そう考えたら、一度掘り出され、それが切っ掛けで異変が起こり、元の場所へ戻した・・・という理屈が通る。
元浅間社から出土した石は大きい。これは名古屋の古墳を調べた本に記されていたが、古墳の形により、使われる石のサイズが違うというのが分かった。この大きさの石が使われる古墳は、前方後円墳クラスの古墳である。
元浅間社の地名も「高岳」と呼ぶのも、この地に大きな前方後円墳があったと仮定すれば理屈に合う。あの辺りに行けば分かるが、見渡す限り平地であるのに高岳と言うからだ。
別の郷土史を読んでいたら、この元浅間社を移築した時に不思議なことがあったことが分かった。「元に戻せ!」という何者かが関係者の夢に出てきて告げたのだという。
当時の名古屋城築城について想像するに、造る方は大変な苦労を強いられたと思う。それこそ考えられる限り材料をかき集めるのに奔走した。徳川家康も古墳を壊すということを決定するまで、よーく考えたと思う。そうなると祟りが起きるかもしれないと。
石垣を集めた加藤清正と浅野幸長、そして牛頭天王の社を移築した佐久間政実(さくままさざね)。この三人に共通しているのは皆昔は豊臣方の侍だったということだ。
家康公としても、元豊臣方の侍三人に経済的打撃を与えるという目的もあっただろうが、古墳を壊したり、荒ぶる神の神社を移築するというそんな危ない仕事は、三河時代からの苦楽を共にした大事な家臣達にはとてもさせたくなかったのではと思う。
話を戻すが、名古屋城下に残る二つの牛頭天王を祀る神社の謎も、この浅間社の例で考えると案外そういうことなのでは?と思えます。
続く~
◎追記
名前は忘れたが北区には、古墳から掘り起こされたものの、何らかの理由で使わなくなった石が庭石として奉納された寺があった。
それが「富士浅間社」だ。

名古屋城下町にあるそんなに大きくないこの神社。

(以上二つの画像は西区の富士浅間社)
もともとこの場所に祀られていた神社ではない。400年ほど前に現在地へ移築された。最初に建っていた地は今で言う名古屋市の東区、「高岳(たかおか)」と呼ばれる交差点の近くにあった(以下「元浅間社」とします)。いや、移築後再建されたので、今でも残っている。

(以下画像は元浅間社)
応永5年(1398年)に前山源太夫なる人物が富士浅間社(静岡)を参拝し、その御分霊を勧請したとのこと。看板を読むに近郷稀に見る霊地だったそうだ。

徳川家康も参拝に来ている。そして名古屋城築城を切っ掛けにこの神社は名古屋城下町に移築が決定し壊されることになった。

浅野幸長が社域に普請小屋を設けたため、神社は移築されたと云う。
元浅間社の境内には来歴はよく分からない石が今でも残っている。

赤い桝形は一種のトレードマークか。石垣用ということで結構な大きさがある。

この石は理由があって、元浅間社に戻された。素人目に見ても石垣としては十分使えそうな感じだったが、何か事情があり戻され埋められたのだ。
話は変わるが名古屋市の北区はかつて「古墳百墳」といわれるほど古墳があったが、現在はかなり少なくなっている。これ、実は家康公の命令を受けた加藤清正により、相当数の古墳が壊されたことによる。
古墳の中には石室とよばれる遺体を納める部屋があるが、どうもその石室に使われた石を目当てに古墳を壊していたようだ。
名古屋城は当時の例で見てもかなり大きな天守閣だ。想像以上に材料をかき集めるのに苦労したと思う。巨大な天守閣を支える石垣も凄い量が集められた。しかし、名古屋城が建つ地は山などない場所。掘れば石が出る所など近隣にはない。
故に、掘れば確実に石が出てくると分かっている箇所、古墳がターゲットになったのだ。
元浅間社の来歴には何も記されていないが、私はこの元浅間社の位置に古墳があったのではと考えている。古来からそういう場所は霊地になったり寺社が建てられることは多いからだ。そう考えたら、一度掘り出され、それが切っ掛けで異変が起こり、元の場所へ戻した・・・という理屈が通る。
元浅間社から出土した石は大きい。これは名古屋の古墳を調べた本に記されていたが、古墳の形により、使われる石のサイズが違うというのが分かった。この大きさの石が使われる古墳は、前方後円墳クラスの古墳である。
元浅間社の地名も「高岳」と呼ぶのも、この地に大きな前方後円墳があったと仮定すれば理屈に合う。あの辺りに行けば分かるが、見渡す限り平地であるのに高岳と言うからだ。
別の郷土史を読んでいたら、この元浅間社を移築した時に不思議なことがあったことが分かった。「元に戻せ!」という何者かが関係者の夢に出てきて告げたのだという。
当時の名古屋城築城について想像するに、造る方は大変な苦労を強いられたと思う。それこそ考えられる限り材料をかき集めるのに奔走した。徳川家康も古墳を壊すということを決定するまで、よーく考えたと思う。そうなると祟りが起きるかもしれないと。
石垣を集めた加藤清正と浅野幸長、そして牛頭天王の社を移築した佐久間政実(さくままさざね)。この三人に共通しているのは皆昔は豊臣方の侍だったということだ。
家康公としても、元豊臣方の侍三人に経済的打撃を与えるという目的もあっただろうが、古墳を壊したり、荒ぶる神の神社を移築するというそんな危ない仕事は、三河時代からの苦楽を共にした大事な家臣達にはとてもさせたくなかったのではと思う。
話を戻すが、名古屋城下に残る二つの牛頭天王を祀る神社の謎も、この浅間社の例で考えると案外そういうことなのでは?と思えます。
続く~
◎追記
名前は忘れたが北区には、古墳から掘り起こされたものの、何らかの理由で使わなくなった石が庭石として奉納された寺があった。
2017-03-23
◆ 考察・「天神山町」 その3 ~亀尾天王社~
名古屋城築城以前にあった二つの神社、若宮八幡社と亀尾天王社。両社は並んで祀られていたが、亀尾天王社は名古屋城内に残され、若宮八幡社は現在地(中区栄)に移転された。
今回は亀尾天王社について調べてみた。明治以後、社名が変わったようで現在は「那古野神社(なごやじんじゃ)」という。

この神社を知っている人は「東照宮」という方が聞きなれているかもしれない。東照大権現、即ち徳川家康を祀っている。しかし、本来は「天王社」と称していた。天王とは「牛頭天王」のことである。
亀尾天王社の歴史は古く、醍醐天皇の御代、延喜11年(913年)3月16日に鎮祀されたとあった。1000年以上前の古社だ。創建当初は真言宗亀尾山安養寺12坊があったそうだ。牛頭天王を中心とした密教寺院だったのである。この寺院時代の仏像が、一体知立市のお寺に残っている。藤原時代の薬師如来像だ。
その後、織田信秀と今川左馬之助氏豊との戦争により焼失したが、後に信秀により再興された。その後、豊臣秀吉が社領三百四十八石余りを寄せる。

そして徳川家康の天下となり、名古屋城築城。若宮八幡社は移されたが、天王社は再三の御籤(みくじ)で「不遷」と出たので現在地へ残されたという。

若宮八幡社は牛頭天王社よりも古い神社であったが、天皇家所縁の神社は移され、牛頭天王社は残された。これは畏れがあったからだと思う。

(画像はネットより)
当時の配置を調べるに、本丸御殿の真南にある天王社の隣は東照宮が祭られている。その配置を見るに徳川家の偉大な先祖神となった家康と同格のような、そんな扱いにも見える。
先ほどの亀尾天王社の来歴を読むに、一か所だけ気になるところがあった。それは「御籤で再三占って不遷」という箇所だ。徳川家康は名古屋城築城の際、かなり大胆な政策を行っている。「本気でそれやるか?」と思うようなことだ。
それについては次回述べるが、この天王社の来歴を読んだ時、一文抜けているのでは?と思えた。それは「御籤を引く前に既に天王社を移してしまったのではないか?」ということだ。
それが前回の武嶋天神社であり、移築したものの異変があり、そこで御籤(占い)を行ったら、「移動してはいけない」となり、丁重に城内に再建し祀るようになったのでは?と思う。こう考えれば牛頭天王を祀る神社が2社ある説明もつく。移築した先の神社も壊せなかったのだ。
何故そう思ったかと云うと、これも名古屋城築城に関係している話であるが、似たような史実が、同じパターンの話が別の神社で残っていたからである。
続く~
今回は亀尾天王社について調べてみた。明治以後、社名が変わったようで現在は「那古野神社(なごやじんじゃ)」という。

この神社を知っている人は「東照宮」という方が聞きなれているかもしれない。東照大権現、即ち徳川家康を祀っている。しかし、本来は「天王社」と称していた。天王とは「牛頭天王」のことである。
亀尾天王社の歴史は古く、醍醐天皇の御代、延喜11年(913年)3月16日に鎮祀されたとあった。1000年以上前の古社だ。創建当初は真言宗亀尾山安養寺12坊があったそうだ。牛頭天王を中心とした密教寺院だったのである。この寺院時代の仏像が、一体知立市のお寺に残っている。藤原時代の薬師如来像だ。
その後、織田信秀と今川左馬之助氏豊との戦争により焼失したが、後に信秀により再興された。その後、豊臣秀吉が社領三百四十八石余りを寄せる。

そして徳川家康の天下となり、名古屋城築城。若宮八幡社は移されたが、天王社は再三の御籤(みくじ)で「不遷」と出たので現在地へ残されたという。

若宮八幡社は牛頭天王社よりも古い神社であったが、天皇家所縁の神社は移され、牛頭天王社は残された。これは畏れがあったからだと思う。

(画像はネットより)
当時の配置を調べるに、本丸御殿の真南にある天王社の隣は東照宮が祭られている。その配置を見るに徳川家の偉大な先祖神となった家康と同格のような、そんな扱いにも見える。
先ほどの亀尾天王社の来歴を読むに、一か所だけ気になるところがあった。それは「御籤で再三占って不遷」という箇所だ。徳川家康は名古屋城築城の際、かなり大胆な政策を行っている。「本気でそれやるか?」と思うようなことだ。
それについては次回述べるが、この天王社の来歴を読んだ時、一文抜けているのでは?と思えた。それは「御籤を引く前に既に天王社を移してしまったのではないか?」ということだ。
それが前回の武嶋天神社であり、移築したものの異変があり、そこで御籤(占い)を行ったら、「移動してはいけない」となり、丁重に城内に再建し祀るようになったのでは?と思う。こう考えれば牛頭天王を祀る神社が2社ある説明もつく。移築した先の神社も壊せなかったのだ。
何故そう思ったかと云うと、これも名古屋城築城に関係している話であるが、似たような史実が、同じパターンの話が別の神社で残っていたからである。
続く~
2017-03-20
◆考察・「天神山町」 その2 ~名古屋の鎮守様~
神社に関心を持つようになったのは20代半ば頃からであったが、大きな観光地の神社というより、誰も行かないような神社や非常に怖い神社をこの頃は探してよくお参りに行っていた。
その延長線上で、町中にある生活に密着した小さな祠にも、通りかかったりすると着目するようになったが、町の祠は圧倒的にお地蔵さんや稲荷神が多い。それに姫神系が後に続くが、お地蔵さんや稲荷神に比べると全然少ない。菅原道真公の天神様に至っては、見たことがない。
私が知っている菅原道真公の祠は、名古屋市千種区の上野天満宮近くの、セブンイレブン駐車場内にあるものだ。しかし、これは天神様が常駐している祠ではなく「御旅所」と呼ばれるもので、ある期間だけ天神様が泊まられるという祠だ。
天神様を祀っている神社は主に天満宮と言うが、どこの天満宮もちゃんとした敷地の中に祀られている。家と家の間にポツンとあるような祀られ方は私の知る限り思いつかない。これは天神様自体が嘗ては祟りまくる怨霊神であった為、丁重に祀られるからだ。
天神山の由来となった天神様の正体。それにはまず、昔の庶民にとって、名古屋城下の人々にとって一体どんな神様が身近だったのか?を突き止めることが先決になった。
まず、名古屋城が出来る前、その城周辺の土地には一体何が祭られていたかを調べてみることにした。最初に見つけたのが元々名古屋城の建っている土地(御深井丸の南)にあり、築城と共に現在地へ移転したこの神社。

その社名は「武嶋天神社」という。

「西区の歴史」という郷土資料によれば、御祭神は特定出来ていないようだ。というのも現在では御祭神が少彦名命(スクナヒコナノミコト)となっているが、尾張誌という本には天神(菅原道真)が中央、左に中将殿、右に吉祥天とあった。最初は辨財天を祀る社で何時頃からか天神社になったという説もある。

境内の少し変わった形の灯篭にはこんな文字が彫ってあった。


「志那事変記念」とある。調べたら昭和12年頃の事件なので、そのあたりに奉納されたものだろう。他には牛の石像もあった。

鳥居も含めてどれも昭和になってから設置されたものだった。牛が奉納されたということは、この頃は菅原道真公が御祭神だと誰もが信じていたのだろう。
現在の御祭神は少彦名命とあるので、どこから資料が出て来たのかハッキリしないが、菅原道真公ではなかったことだけは判明したようだ。「天神」という言葉は基本的には菅原道真公を指す言葉だが、「天津神(あまつかみ:記紀神話における天上の神々)」を指す場合もある。
しかし、この神社の御祭神については、どうにも違うように思う。
この「武嶋天神社」の読み方は「たけしま」と読むと思うが、「むとう」と読むとすれば、それは「武塔」の文字が最初に充てられていた可能性もある。そうすれば武塔天神、即ち「牛頭天王」のことだ。(吉祥天と牛頭天王というのも関係性がある)
調べていくと、名古屋城の建つ地にもともとあった神社はそれだけではなかった。弁財天と習合した宗像三神(むなかたさんしん:広島の厳島神社の御祭神)は三か所に分けて祀られていたし、他にも「亀尾天王社」や「若宮八幡社」もあったと分かった。この二つの神社はどちらも現存(移築)している。亀尾天王社は調べてみたが、牛頭天王を嘗ては祀る神社だった。
そうなると、武嶋天神社が牛頭天王だとすると、二つの牛頭天王社が名古屋城築城以前の地に祀られていたことになる。これはどういうことなのか?
次回は若宮八幡社と亀尾天王社についてもう少し掘り下げてみることにする。
その延長線上で、町中にある生活に密着した小さな祠にも、通りかかったりすると着目するようになったが、町の祠は圧倒的にお地蔵さんや稲荷神が多い。それに姫神系が後に続くが、お地蔵さんや稲荷神に比べると全然少ない。菅原道真公の天神様に至っては、見たことがない。
私が知っている菅原道真公の祠は、名古屋市千種区の上野天満宮近くの、セブンイレブン駐車場内にあるものだ。しかし、これは天神様が常駐している祠ではなく「御旅所」と呼ばれるもので、ある期間だけ天神様が泊まられるという祠だ。
天神様を祀っている神社は主に天満宮と言うが、どこの天満宮もちゃんとした敷地の中に祀られている。家と家の間にポツンとあるような祀られ方は私の知る限り思いつかない。これは天神様自体が嘗ては祟りまくる怨霊神であった為、丁重に祀られるからだ。
天神山の由来となった天神様の正体。それにはまず、昔の庶民にとって、名古屋城下の人々にとって一体どんな神様が身近だったのか?を突き止めることが先決になった。
まず、名古屋城が出来る前、その城周辺の土地には一体何が祭られていたかを調べてみることにした。最初に見つけたのが元々名古屋城の建っている土地(御深井丸の南)にあり、築城と共に現在地へ移転したこの神社。

その社名は「武嶋天神社」という。

「西区の歴史」という郷土資料によれば、御祭神は特定出来ていないようだ。というのも現在では御祭神が少彦名命(スクナヒコナノミコト)となっているが、尾張誌という本には天神(菅原道真)が中央、左に中将殿、右に吉祥天とあった。最初は辨財天を祀る社で何時頃からか天神社になったという説もある。

境内の少し変わった形の灯篭にはこんな文字が彫ってあった。


「志那事変記念」とある。調べたら昭和12年頃の事件なので、そのあたりに奉納されたものだろう。他には牛の石像もあった。

鳥居も含めてどれも昭和になってから設置されたものだった。牛が奉納されたということは、この頃は菅原道真公が御祭神だと誰もが信じていたのだろう。
現在の御祭神は少彦名命とあるので、どこから資料が出て来たのかハッキリしないが、菅原道真公ではなかったことだけは判明したようだ。「天神」という言葉は基本的には菅原道真公を指す言葉だが、「天津神(あまつかみ:記紀神話における天上の神々)」を指す場合もある。
しかし、この神社の御祭神については、どうにも違うように思う。
この「武嶋天神社」の読み方は「たけしま」と読むと思うが、「むとう」と読むとすれば、それは「武塔」の文字が最初に充てられていた可能性もある。そうすれば武塔天神、即ち「牛頭天王」のことだ。(吉祥天と牛頭天王というのも関係性がある)
調べていくと、名古屋城の建つ地にもともとあった神社はそれだけではなかった。弁財天と習合した宗像三神(むなかたさんしん:広島の厳島神社の御祭神)は三か所に分けて祀られていたし、他にも「亀尾天王社」や「若宮八幡社」もあったと分かった。この二つの神社はどちらも現存(移築)している。亀尾天王社は調べてみたが、牛頭天王を嘗ては祀る神社だった。
そうなると、武嶋天神社が牛頭天王だとすると、二つの牛頭天王社が名古屋城築城以前の地に祀られていたことになる。これはどういうことなのか?
次回は若宮八幡社と亀尾天王社についてもう少し掘り下げてみることにする。
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