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2020-03-26

◆鬼のお話  第7回  犬飼武

前回の続きです。

ついに討たれてしまった温羅。その首は斬り落とされてしまう。そして・・・


◎五十狭芹彦命vs温羅 続き

その後、温羅の首は串刺しにされ晒し首となったが、温羅の怨念は凄まじく何時までも不気味な唸り声を上げ続けた。


そこで五十狭芹彦命は部下の犬飼(養)武に命じ、首を犬に喰わせた。


しかし頭蓋骨になりはてても温羅の唸り声は止む事はなかった。たまりかねた五十狭芹彦命は、頭蓋骨を茅葺宮の釜殿の下に穴を掘り埋めてしまったが、一層唸り声は酷くなっていった。


それから13年の月日が経ったが未だに唸り声は続いていた。ほとほと参った五十狭芹彦命だったが、ある日彼の夢に温羅が現れ、こう告げた。


「我が愛した阿曽女を連れてまいれ。阿曽女を持って我を祀るならば声も鎮まろう。そして釜で占うがよい。吉事の時、我の首は穏やかに鳴り、凶事の時は荒々しく鳴るであろう」


こうして、ともかく呼び出された阿曽女によって温羅が祀られるようになると、恐ろしい唸り声はパッタリと止んだ。永きに渡った戦いもようやく幕を降ろすことになった。仕事を終えた五十狭芹彦命は吉備津彦命と名を改め、吉備臣の祖先となった。吉備津彦は死後、吉備中山に埋葬されたと言う。




・・・五十狭芹彦命と温羅の長い戦いは決着した。

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まず、気になった個所として青字のところを考えてみたい。桃太郎の昔話では家来に犬が出てくるが、このモデルと云われているのが、五十狭芹彦命の配下の一人、犬飼武(いぬかいのたける)だ。討たれた温羅の首はそれで終わりではなく、更に犬にのエサになるという、いくらなんでも酷過ぎる扱いを受ける。

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そんな扱いを受けたからか、当然討たれた温羅は祟る。頭蓋骨になっても唸り声をあげたという表現に恐ろしさを感じる。五十狭芹彦命はたまらず、釡殿の下に埋めた。


釡とは火で水を沸かすものだ。古代より火と水の力を制する者は国を制すという話がある。古事記にも火と水の力を手に入れ、兄の海幸彦を倒した山幸彦の話がある。


火と水の力を表す釡の底、地面の中に埋めたというのは温羅を封じたかったのだろう。しかし、封じは失敗し更に温羅の首は唸り続けた。祟りという表現はないがこれは祟りまくったと思う。


赤文字個所に話をうつす前に、温羅の配下、犬飼武についてもう少し考えてみたい。


刎ねられた温羅の首を犬飼武の犬に喰わす…。


怖い個所なので、ついつい聞き流してしまう箇所だが、これにも隠された意味があると思えてならない。


例えば「吉備津彦命」の名の場合、吉備を平定したので国の名が人名になったという意味があると判るが、犬飼武の場合、ただ犬を飼っているから苗字になっているという単純な理由だとすると、これは明らかに自らが名乗ったのではなく、蔑みを含んだ名前だと思える。


祟られる可能性がある首を喰わせるという行為も無理矢理やらされたのだろう。


犬飼一族は全国制覇を狙う大和朝廷に滅ぼされるより降伏を選んだ。だから敢えてこの名を受け入れた。元は別の名前があったのかもしれない。


こう考えて大和朝廷側から見ると、敵と決めた相手には、損害を最小限に抑える為、降伏した人々を差し向け、自らの手は汚さないという巧妙な手口が浮かんでくる。


鉄や稲を求めて全国制覇をしていたのであれば、最前線で戦わせる人々も産鉄民だった可能性が高い。同族同士の戦いもあったのかもしれない。


また犬飼武は犬飼部(犬養部)の一族とされている。猟犬を飼育していたという説と番犬と共に門を守っていたという説がある。同じように雉や猿も人間だった。


またこんな話もある。真相は定かではないが、犬飼いの一族の末裔に1931年に総理大臣となり5.15事件で暗殺された犬養毅がいたとされる。都市伝説の類かもしれないが、吉備津彦命を祀る吉備津神社には犬養毅の記念碑だったか何かがあったので、案外本当に子孫にあたるのかも。

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次回は赤文字個所を中心に鬼のお話を続けて参ります。



参考文献  鬼  新紀元
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2020-03-16

◆鬼のお話  第3回  火雷火気毒王

鬼に纏わる話を拾って行こうということで、しばし何から紹介しようかと思案しました。


歴史上には様々な鬼が登場する。一つ一つ調べると正直気軽にブログにして大丈夫かという気持ちになる。


例えアクセス数の少ない私のつたないブログでも、間違ったことを紹介すると怒られるのではと内心ビクビクしております。


最初の鬼は何にしようか?これをお読みの皆さんが知っていて、意外に自分の住んでいる近くにも祀られている、そういう存在が最初は良いのでは?と考えた所、この神様に辿り着いた。


学問の神様、天神様こと菅原道真公だ.。無論、天神様は全国から信仰を集める立派な神様だが、そうなる前は鬼神として恐れられていたことがあった。


個人的には子供の頃から縁があり、手を合わせるようになってから随分経つ。好きな神様だ。そんなこともあり、天神様についてはそれなりに理解しいるつもりだったが、改めて調べると知らなかったことも幾つか出てきた。まずはざっとだが簡単に菅原道真公について昔話っぽく紹介致します。





◎天神様 菅原道真公について


北野天満宮や太宰府天満宮、各地に残る天神社、天満宮のご祭神である菅原道真公は、幼少の頃より学業に励み、情緒豊かな和歌を詠み、格調高い漢詩を作るなど優れた才能の持ち主でした。


学者出身の政治家として卓越した手腕を発揮し、異例の出世を重ねられた道真公は、昌泰2年(899)右大臣の要職に任命され、左大臣藤原時平と並んで国家の政務を統括されます。


ところが、突如藤原氏の策謀により、昌泰4年(901)大宰権帥に左遷され、そのわずか2年後、大宰府の配所にて波乱の生涯を閉じられました。


七日七晩、天拝山に上り天の神に祭文を唱え、無実を訴えたとの言い伝えが残っています。道真公の死後、しばらくして都では異変が相次ぎました。


左大臣、藤原時平が39歳で急病に倒れ、時平の妹、隠子皇后の子、皇太子保明親王が21歳で病死しました。世人は皆、菅原公の怨霊の仕業と噂しました。朝廷も放置出来ず、道真公を本管の右大臣に復し、正二位を贈り、太宰府配流の詔書を破棄させ怨霊を慰めよう努めました。


しかし、保明親王の没後、直ちに立太子した時平の外孫、慶頼(よしより)王も延長3年(925年)、わずか5歳で亡くなり、さらに延長8年6月、清涼殿落雷という衝撃的な事件が起こりました。


この時、天皇は清涼殿の東廂(ひさし)に出座しておりましたが、御前に居合わせた大納言、藤原清貫が雷に打たれて即死したのです。この出来事を目の当たりにした天皇は病床につき、その年の9月に譲位し間もなく世を去りました。


こうして道真公は「火雷神」と呼ばれ、もっとも恐ろしい怨霊とされ、それをなだめるために各地に神社が建てられました。


その一方、学者・文人の間では早くから学問の神として崇敬されており、やがて両者が合体して天神信仰を高め、さらに学問の神としての信仰が、御霊信仰を上回って一般庶民まで広まり現代に及び、人々の生活のなかで受け継がれています。


道真公の精神は「和魂漢才」の四文字に集約されるように、自国の歴史と文化にしっかりとした誇りを持ち、他国の文化も受けいれる寛容さが特徴です。道真公が生涯一貫された「誠の心」は、今も日本人の心に生きつづけています。


また天神様の御神徳としましては、学問の向上以外に、農耕(雷神・雨)、正直・至誠、冤罪を晴らす、文学・和歌、芸能、厄除けなどもございます。





・・・という感じだ。


政権争いに巻き込まれ、無実の罪で遠方に追いやられた道真公。その恨み、怒りの凄まじさは鬼神となって祟るようになる。鬼神にならざるをえなかったその心中は、さぞ無念であっただろう。誰もが好き好んで鬼になるのではない。望まない酷い仕打ち、被害を被ることで鬼になってしまうこともあるのだ。


道真公は怨霊神という呼ばれ方もする。当初、怨霊と鬼は違うのかな?と思っていたが、鬼の意味を調べればどちらも殆ど同じに思える。明確な区別があるのかもしれないが、現状では分からない。


今回改めて調べてみて新たな発見もあった。例えば鬼神となった道真公には16万8千もの眷属(けんぞく:部下みたいなもの)がいたというものや、天神縁起の挿絵の中に、清涼殿に雷を落とす黒雲に乗った赤い鬼神があるが、この赤鬼に名前があったことなどだ。

北野天神 図録  鬼神の図


鬼となった道真公(あるいはその眷属の名前かも)は「火雷火気毒王(からいかきどくおう)」と云う。これは知らなかった。


16万8千もの眷属がいるとか、強烈な印象を与える凄い鬼の名前など、後の人が脚色したものも多いであろうが、それは裏返せばそれだけ凄まじい力を持っている、貴方様には敵いませんという畏敬の念と、荒ぶる神の凄さを称えている表現だと思う。


また、文字や絵で残すことで、後のお参りする人達へ、道真公のことを忘れないようにしたかったという思惑もあるだろう。事実、それだけの災厄を齎し、人々を震え上がらせたのだから・・・。



次回はもう少し天神様のことについて考えてみたいと思います。




参考文献 太陽スペシャル 「天神伝説」 平凡社
参考資料 北野天満宮 HP http://kitanotenmangu.or.jp/about_michizane.php


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2020-01-16

◆日本のしきたり・第三回 正月について その3

お正月飾りの続き。今回は鏡餅について考えてみる。


鏡餅の鏡とは、銅鏡のことだ。もっと言えば神社にある御神器としての鏡である。古代の銅鏡は、現代の鏡と違い、自分の身なりを写すものではなく神が宿る依り代という意味がある。


鏡自体が御神体でもあり、自分の御霊を写すものでもある。

高座結御子神社⑪

過去ブログに一度上げたが、昔、熱田神宮の広大な(嘗ての)境内にある古社の一つで、不思議な写真を頂いたことがあった。前回の話に少し重なるが、この神社に参拝に行った際、根元に小さな鳥居がいくつも置いてある御神木があった。


この時「あっ、御神木は神が宿るし、神そのものでもある。神社の木には触ったらいかんな」と言葉で発しながらお写真を頂いたらこのような写真が撮れた。


特に反射するものがあった訳ではないが、まるでそこに鏡があるかのような光が写っていた。鳥居の上にあるのも、神は鳥居に降りるという言い伝えがあるので、この件では神様いるよと教えて頂いたようにも思えた。


鏡が丸いのは、魂の形を表しているのやもしれない。


鏡餅を二つ重ねるのは、福徳が重なる様にという意味がある。


しかし、私は日本の、物部神道に伝わるという二つの鏡、興津鏡と辺津鏡を表していると思う。


神道最大の謎と云う十種神宝(とくさのかむたから)に含まれる、陰陽二枚の御神器の鏡である。


日本の宗教観は、古くは今ほどハッキリ分かれていなかった。神道も仏教も陰陽道も複雑に交じり合っていた。鏡餅を見るに陰陽の考え方も入っていると思う。大きい餅は陽の鏡「興津鏡」。小さい方は陰の鏡「辺津鏡」を表していると思う。


また、米は昔から日本人にとって命の要の農作物だった。古代豪族の権力の象徴は鉄と稲であるように、保存が効き、安定的な食糧源である米は大切なものであった。

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山の神の話を読んでも、普段は山に住み、春になると下りてきて田の神となり秋に帰るというものがある。山の神は稲の神でもあるのだ。この辺りの話が歳神=山の神という話になるのだろう。庶民にとっては歳神(山の神=稲の神)は生命線なのだ。故に稲の神のもたらした餅で、神が宿る鏡の形を作り、正月におもてなしをするのである。


伏見稲荷に残る昔話でも興味深いものがあった。古代豪族の秦氏は、先祖神でもある伏見稲荷を祀っていたが、栄華を極めていた秦氏は慢心になり、あろうことが鏡餅を弓矢の的にして矢を放っていたら、とたんに神罰が下ったというものだ。鏡餅が神聖なものであるという事、そして「誰のお陰で繁栄してると思っているのか!」という神の怒りがよく分かる話である。


正月には当たり前のように餅を食べると思っていたが、調べていたら餅を食べない地域もあった。東京足立区に、落ち武者達が苦労して開墾したことが始まりの集落がある。彼らは貧しく正月も餅が食べれず芋の雑炊を食べていた。その先祖の苦労を思って、今でも正月には餅を食べない。


栃木県にも、鬼怒川から農業用水を引く工事が終わるまで、正月も餅をつかずに働くと願掛けをしたという伝承が残る地域もある。そういう地域では「餅なし正月」を行っているという。足立区の例も栃木県の例も同じで、どちらも苦労した先祖達のことを思って餅を敢えてたべないのである。


正月は政を行う行事であり、お盆的な意味があると気付いた。


先祖のことを思い、地域の神や自身の信仰する神に祈り感謝する各家庭で行う大事なお祭なのだ。先祖神や地域の神、信仰する神を味方につけることで結果的に家の繁栄にも繋がるのである。


※追記

神が宿る鏡餅を食べるという行為は、神と同族になる、守ってもらいたいという発想かと思います。




※紅葉屋呉服店はこちらまで
2019-12-10

◆不思議なお経

最近、とあるお寺様とご縁があり、一冊の経本の存在を知りました。

お経のタイトルは「仏説療痔病経」と言います。

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経本の最後の方に解説文がありました。



「お釈迦様が在世の折、阿難尊者に対して修行中に諸のできものに悩む比丘達を救う為に、二種の神咒をお時になられたものであります。~(中略)~ 日本でもこの経の霊験に依って、痛苦を消滅し心身安楽を得たという霊験が伝えられていますが、時代の移り変わりによって忘れ去られていました。」

また、

「台湾などの仏教徒は、この経を受持して癌などの病に霊験を頂き、報恩の為に印刷して広く施本するという信仰が支持されている」

とのことです。


痔とあるので痔に特化したお経かと一瞬思いましたが、よくよく読めば腫物、できもの、ガン、病気全般に功徳があるというお経でした。


実際、私は長年痔に困っていました。無論、病院に行ったり薬を用いて、その場その場をやりくりしておりましたが、このお経とご縁があり、毎朝仏様の前で唱えている内に、劇的に調子が良くなってきました。誠に不思議なお経です。


現在、手元には一冊余分があります。欲しいとおっしゃる方は紅葉屋呉服店のHPからお問い合わせメールを下さいませ。



追記

病気の時は当然病院へ行ったり、薬を使ったりしますが、やるべきことをやった後、もう一つ何か力押しをという時は仏様の力は大きく作用することがあります。このお経を読むことで流れが変わることがあるやもしれません。これは私の長年の経験です。




2017-12-24

◆マリア観音像

毎年クリスマスの時期になると、我が家ではマリア観音像の祭事をしている。

先祖から伝わるマリア観音像。先祖供養も兼ねてのお参りだ。

クリスマス・マリア像⑤

先祖に切支丹だった人がいたようだ。手を合わせてお参りすると暖かい感じを受ける。

クリスマス・マリア像④

カトリックの所作は知らないが、我が家では線香を十字に置いてお参りする。

画像の香炉は御深井焼。蓋部分は消失。

今年の祭事は飛び入り参加(?)で、もう一体マリア観音像が床に設置された。

クリスマス・マリア像③

画像向かって左側にあるのがそれ。

クリスマス・マリア像①

この像、お客様のもので、最近入手されたという。

鑑定と顔の錆を綺麗にするということで一時預かった。

お客様はお参りする目的で手に入れた。父は霊感がある人なのでこの像を調べたが、以前の持ち主はマリア像として真面目にお参りしていたものだと分かった。

生が入っているのだ。悪いものは何もなかった。

我が家のマリア観音像をお祭りする日に持ち込まれたのも何かの縁と、一緒に簡素ではあるがお祭りすることに。

クリスマス・マリア像②

これに祈りを捧げていた方はもういないのだろう。おそらく残った人が手放したのだ。

祈り手は変わるが、こういうものはきちんとお参り出来る人の所へ行くのかもしれない。

ご縁というのは不思議である。



プロフィール

紅葉屋呉服店:店主 加藤大幾

Author:紅葉屋呉服店:店主 加藤大幾
名古屋市内で呉服中心で古美術も扱っているお店をやっています。

主に趣味のお寺と神社の参拝を中心としたブログです。

◆紅葉屋呉服店
momijiyagohukuten.com

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