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2021-04-16

◆地蔵寺釈厄外伝記  その3

玉圓尼が修行中に背負っていた笈厨子。

中には秘仏扱いの仏像が納入されています。

亡き祖父や、この辺りの歴史・昔話に詳しかった祖父の友達、先代のご住職の話それらを纏めると仏像の由来はこのような話です。




奈良時代の話。坂東に行基菩薩(東大寺の勧進僧)が霊木を彫った仏像があった。

時は流れて平安の始め、この霊木の仏像を祀っている寺が火災になった。

その頃、慈覚大師円仁がこの寺の噂を聞き赴いた折、焼け残り炭と化した霊木仏の胎内から一体の小さな金銅仏を見つけた。

その金銅仏は釈迦如来像であり、これが尋常ではない仏像と気付いた円仁は、すぐさま裂に包み完全秘仏とした。



と云うものです。


それから数百年の時が流れ、慈覚大師により封印された金銅仏は、後に地蔵寺六代目を継ぐ玉圓尼和尚の念持仏となっていました。(経緯は不明)

地蔵寺5代目住職、寿教尼和尚とのご縁で6代目住職となった玉圓尼、そして人から人へ憑き、共に修行をしていた白旗稲荷も初めて寺の守護神となりました。


そして前回の続きですが、いざ寺の門を潜ろうとしたその時、異変が起こりました。


玉圓尼が笈厨子を担いだまま寺の門を潜ろうとすると、辺り一面唸り出し、どうしても寺に入ることが出来ないのです。原因は笈厨子の中の秘仏でした。


長い玉圓尼との修行生活によって途轍もない力を秘めた仏像になり、寺に納まらなかったのです。それもまた仏像の意思なのでしょうか。


玉圓尼は白旗稲荷の神意を得て、この厨子と仏像を地蔵寺から見て辰巳(南西)の方角にある、名古屋最古の弁才天を祀ると云う宝周寺周辺の数件の家で、管理することとしました。


各家で一年毎巡回させることになったのです。



玉圓尼の笈厨子①

この風習は嘉永年間から昭和の初め頃まで続きましたが、名古屋大空襲で大勢の人々が亡くなり、人が入れ替わったことで途絶えてしまいました。


そして現在、巡り巡って玉圓尼の笈厨子は我が家で祀ることになり、毎日お参りしておりますが、昨年、夜に何やら父が厨子の前でごそごそやっていいるのを目撃しました。近付いて覗いたら驚きました。厨子の中の秘仏を出していたからです。

 
何にしろ、かなり強い仏像なので絶対に開けるなと祖父から言われていたものですから、思わず「開けて大丈夫!?」と叫んでしまいました。


厨子から出て来たのは伝承通り、釈迦如来の金銅仏でした。大きさは15センチ程金色の仏像です。画像はアップ出来ませんが、釈迦如来の衣の形は、法隆寺の救世観音のように左右に広がっている様式です。


何故今出したのかと父に尋ねれば、


「兆しがあったから。もう開けて良しと言うことを聴いたから」


とのことでした。


初めて目にした玉圓尼の念持仏は、何と言うか神々しく、聞いていたそれより遥に強い力の仏像でした。また玉圓尼が考案したのでしょうが、祀り方も変わっていました。厨子の中には木彫の地蔵菩薩と伝三宝荒神像が入っていました。釈迦如来を中心とした、あまり聞いたことのない三尊形式です。

 
地蔵菩薩像はおそらく玉圓尼が彫ったもので、伝三宝荒神像は顔だけです。


厨子を開けた理由の一つに、今の世の中の様子が挙げられます。コロナ禍です。


伝え聞くことによれば、この釈迦如来像は祟り神や厄神の封じに強力な御利益があるとのこと。


前回のブログにも触れましたが、玉圓尼が神仏に働きかける法力は凄まじく、御祈祷やお加持の力で祟りや障りで苦しむ人を助ける、結果的に病を回復させる等々、数多くの奇跡を齎した尼僧でした。


その玉圓尼が念じ続けた仏像ですので、それは力を感じて当たり前と言えば、当たり前なのかもしれません。


今回、7月4日から行う店内イベントでは、この玉圓尼の念じ、崇めた釈迦如来像を特別開帳致します。玉圓尼が遷化されてから137年経ちますが、その間一度も開けなかった仏様です。


御縁のあった皆様が、元気と活力、そして御縁を頂ければと思います。


次回は父とその書いた物語、「地蔵寺釈厄外伝記」についてお話します。



続く~


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2021-04-14

◆地蔵寺釈厄外伝記 その2

地蔵寺釈厄外伝記に登場する主役が戒心玉圓尼和尚と、白旗稲荷大明神です。


現在、地蔵寺の守護神をしていらっしゃる白旗稲荷大明神。


元々、地蔵寺が創建されてからしばらくはこのお稲荷さんはいませんでした。玉圓尼和尚が地蔵寺の6代目を継いだ時に、白旗稲荷も祀られるようになりました。


白旗稲荷は伏見稲荷から分かれた稲荷大明神です。明神とは神を仏教側から呼ぶ尊称です。伏見稲荷は、古代豪族の秦(はた)氏が信仰していた神様です。現在の伏見稲荷は完全に神道稲荷になってしまいましたが、明治の神仏分離、廃仏毀釈運動があった前は、密教系の寺院が中にあったのではと思います。


京都には秦氏が建てた寺院、広隆寺という京都最古の仏像などを多数祀る寺院があることから、奈良時代には秦氏は仏教に傾倒していたと思われます。


白旗稲荷大明神は、幕末~明治に生きた玉圓尼和尚を守護していた稲荷神なので、何時頃分魂したのかは定かではないですが、まだ伏見稲荷が仏教系の稲荷神、荼枳尼天(だきにてん)だった頃に分かれた稲荷でしょう。


因みに、元々仏教系の稲荷神を本尊で祀っていた寺が、ある時人間の勝手な事情で仏教を止めて神道に変わった場合、祀り方もガラッと変わる訳ですが、この場合仏教系の稲荷神は追い出され、神道系の稲荷神に変わるようです。


話を戻しますが、玉圓尼の名の一文字、「玉」は稲荷が持っている「宝珠」からとったと記述があるので、玉圓尼が僧侶になって間もなく、あるいはなる前か、人生のかなり早い段階で玉圓尼は白旗稲荷とご縁があったのではと推測します。そして白旗稲荷と会話ができる、意思の疎通が出来ていたようです。玉圓ありきの白旗稲荷であり、白旗稲荷ありきの玉圓尼という間柄でした。


玉圓尼がどこの出身かは分かりません。ただ分かっているのは、大和の国のとある村で尼庵の住職をしていました。ちゃんとした寺ではなく粗末な家だったようです。玉圓尼は白旗稲荷大明神の加護を受け、種々の奇特(特別にすぐれていること。また、行いが感心なこと。)あり、沢山の人々から信仰を受けていました。


ある時霊夢のお告げがあり、その村を後にして二度と帰らなかったようです。旅立ちの日は引きとめる村人を説得し、尼庵の床下に白い石があること、それには白旗稲荷大明神の眷属が宿っているので、それを御神体にして祀る様に告げ旅に出ました。


その後は全国を修行で歩いていた遊行僧となりました。布教をしたり、寺の無い村では村人に頼まれて供養をしたり、善光寺への代参を頼まれればそのようにしたり、四国や知多の霊場をまわっていたようです。


地蔵寺2

玉圓尼は大変優れた才能を持っていた女性の僧侶です。江戸時代にあった全ての仏教宗派の経典に通じておりました。修行の旅の途中立ち寄る村によっては、先祖供養を頼まれることもありましたが、どんな宗派でも対応出来たそうです。


また加持祈祷に長け、病や災難の原因を突き止め解決したり、易学にも精通しておりました。その人柄、驚異的な能力を持っていたことから、何時の頃からか「地蔵菩薩の生まれ変わり」と呼ばれていたそうです。私が思うに、修験者のようなお坊様だったのでしょう。


玉圓尼は全国を修行や布教で歩いていた訳ですが、ある時、玉圓尼と白旗稲荷が現愛知県の半田市のとある村に立ち寄った際、たまたま親類の法事の為に半田に来ていた地蔵寺5代目住職、「寿教尼和尚」と出会いました。


寿教尼和尚は、今目の前にしている玉圓尼和尚がただものではないと見抜き、ぜひ自分の後を継いで欲しいと願い出ました。それを聞いた玉圓尼はその願いを聞きとげ、地蔵寺の6代目の住職となった訳です。


ただ、その時、玉圓尼が初めて地蔵寺の門を潜ろうとした際に、想定外の事態が起こりました。玉圓尼と白旗稲荷が思ってもみないことが起こったのです。


続く~



2021-04-07

◆地蔵寺釈厄外伝記について その1

令和3年、2021年度の店内企画展が決まりました。毎年、紅葉屋呉服店では企画展を開催しております。毎回テーマを決めて展示物を紹介したり、珍しい商品を販売しております。

 
今回のテーマは「地蔵寺釈厄外伝記の世界 玉圓尼笈厨子137振りの御開帳」と題して行います。


紅葉屋呉服店

このブログの管理人がやっているのがこのお店。紅葉屋呉服店です。

この紅葉屋から徒歩数分の所にある、江戸時代からあるお寺が地蔵寺さんです。

地蔵寺1

地蔵菩薩を本尊として祀る曹洞宗のお寺で、寺の守護神が白旗稲荷大明神(しらはたいなりだいみょうじん)というお稲荷さんです。

 
こちらのお寺、祖父の代からご縁があるお寺で、毎年一回ご住職に我が家の仏様にお経をあげてもらっています。

 
さて、ブログタイトルにもなっている「地蔵寺釈厄外伝記(じぞうじしゃくやくがいでんき)」。このお寺に関する物語で私の父が執筆したものです。
 
 
ことの初めは平成17年(2005年)の6月に遡ります。


当時のご住職、宗賢尼(そうけんに)和尚が我が家へ仏様へのお経を上げに来て頂いた際に、こんな話を父に持ちかけました。

 
それは寺の縁起所の作成に協力してほしいとの内容でした。


自分も年をとった(この時で90歳くらいだった)こと、握力も弱り長い文章が書けなくなってきたこと、後継者が決まっていないので(当時は)、自分がいなくなると寺の歴史が分からなくなるからとのことでした。
 
 
私の父は兎に角本が好きで、かなりの蔵書が家にあります。民俗学や美術品の知識に長けており、良く知ってるなぁと思うことは頻繁にありました。
 
 
今となっては、どうして父に寺の縁起書の執筆を頼んだのか?も分かりますが、この時は変わった依頼だなと思いました。寺の縁起書の執筆を頼まれるという人は、全国的にも殆どいないのではと思います。


しばし考えていたような感じでしたが、父は引き受けることにしました。もともと観音様やお稲荷さんを強く信仰していた人なので、お寺の縁起書の作成の手伝いが出来ることは、滅多にない名誉なことだと思ったのでしょう。


父は宗賢尼和尚に、執筆にあたりお寺に何か古文書の類は無いですかと聞きました。

 
すると和尚さん、昔は古文書の類は結構あったそうですが、近隣の火災に巻き込まれたり、先の戦争の空襲で仏像以外の寺宝の殆どは、寺ごと焼失してしまったの事。古文書も然り。


しかし、宗賢尼和尚の先代、辨英尼和尚が燃える前の古文書を見て、現代語訳にしたものが原稿用紙に少し残っているとのこと・・・。
 

「それでは、その原稿用紙を元に書きましょう。私で良ければお手伝いさせてください。」と引き受けることになりました。


翌日、「ご住職に頼まれましたのでお持ちしました」と年配の女性がご来店されました。


風呂敷包みを受け取り、ありがとうございますと告げると女性は帰って行きました。多分ボランティアの方だったと思います。

 
帰られた後、どんなものだろうと風呂敷を開けて驚きました。原稿用紙は予想より遥かに少ない2枚だったのです。しかも2枚目は半分くらいで終わっており、途中書きの完結していない状態です。
 

これには流石に焦りました。引き受けたのは良いけど、完結していないこの少ない資料から、父は一体どうやって寺の縁起書を纏めるのだろうか?
 
 
「原稿用紙が2枚しかないけど、これどうすんの?流石にこの量では書こうにも書けないのでは?」

 
もう素朴な疑問が言葉になった訳ですが、父が応えた言葉は私の予想を裏切る意外なものでした。
 

「それはコピーか? 手書きか?」


「?鉛筆みたいだから、手書きだよ。」


「そうか。それならやれるから。まぁ見とけ。」


意味が分かりませんでした。コピーはダメで手書きなら出来るという事?何が違う?どういう事?

 
「こうするんだよ。」


と手招きされ様子を観察することに・・・。


椅子に座って書き写し始めた父ですが、すぐにどういうことか分かりました。最初は預かった原稿用紙を一字一句間違えないように写します。一枚半なのでそれほど時間は掛かりません。じきに写し終わってしまいましたが、そこから驚くべきことが目の前で起こりました。先代の辨英尼和尚が書いた文章の続きがスラスラと出始めたのです。全く躊躇することなく・・・。

 
本人が言うには、言葉を転がすことで途切れなく出てくる「御玉転がし(みたまころがし)」という方法だそう。手書きの文章でないと出来ないらしい。
 
 
「そんなに難しくないからお前にも出来るぞ。」
  
 
と言うことでした。
 
 
地蔵寺縁起書


二枚目途中からの続きは、大変な量になりました。現在、原稿用紙40冊を超えまだ完結していません。上の画像は父が書いた縁起書をワードを用いて印刷したものの一部です。


原稿の執筆は起きている時に手を使って自然に出てくる感じですが、寝ている時でも映画のように物語が流れるように観えたり(驚くのは朝起きても克明に覚えている)して、それらを後で書き留めたりすることで増えていきました。
 
 
一体どういうことだと話を聞けば、子供の頃は、寝てる時にお腹の上に板と紙を置いて鉛筆を握って寝ると、朝お腹の上の紙が真っ黒になっていたそう。それでは何が書いてあるかサッパリですが、本人が言うには稲荷の真言とか名号を唱えると、最初に書いた文字から観えてくるとのことでした。今ではそれは出来ないとも・・・。因みにそれは「真暗の御文(まくらのおふみ)」と言うそうです。
 
 
地蔵寺の縁起書は大きく分けて二つになりました。寺の主な歴史を纏めた「地蔵寺縁起書」と、地蔵寺の六代目の住職、玉圓尼(ぎょくえんに)和尚が修行時代に経験したことが中心のお話「地蔵寺釈厄外伝記」です。現在、宗賢尼和尚は遷化されてしまいましたが、寺の歴史の方の縁起書は納める事が出来ましたが、外伝記の方は未だ未完成なので納めておりません。何とか形にして納めたいところです。


次回はこの地蔵寺釈厄外伝記の主人公、玉圓尼と玉圓尼を守護していた白幡稲荷大明神についてお話しします。


続く・・・




2021-02-19

◆弁才天像の修理 ~弁天様との御縁の話~  その後

前回はこちら

発遣・修理・開眼を終えた宇賀弁才天像。

毎日手を合わせていますが、厨子を閉じることにしました。


弁才天像 外厨子



画像は外厨子。この中に更に修理した厨子があり、その中に弁才天像が納入されています。


弁才天のことが段々分かって来たので、在家で祀るにはどうしようかと父と話し合いました。


結論は家族でお参りする分には開いていても構わないが、たまにお客様でお参りしたいという方もみえるので、そうであるなら厨子を閉じておいた方が良いのかもしれないということになりました。


我々庶民に馴染み深い神仏には、稲荷神や弁才天などがいらっしゃいますが、どちらも仏教で言えば天部とか諸天善神と呼ばれる存在です。ここ数年、多分もっと学べということなのだと思いますが、少しずつ神仏との接し方が分かってきました。


具体的に説明せよと云われても、お坊様ではないので言葉での説明は難しいですが、在家で開眼した天部像を祀るのは止めた方が良いという意見も、なんとなく分かる様になりました。(実際のところ、何か我が家に起こっているということは全然ないです)


ただ、締めっぱなしというのも寂しいので、弁才天の縁日でもある己巳(つちのとみ)の日と、己亥(つちのとい)の日は開帳してささやかですがちょっとしたお祭をしようかと計画中です。


己巳の日は年間6回、己亥の日も年間で6回あります。丁度、毎月一回開帳日がある計算になります。お参りの仕方も少しずつ分かってきたので、ある意味楽しみながらやれたらと思います。


思えば私は人生の随分早い段階で仏縁を頂きました。今振り返るに、今まで色々な御縁、人の縁、物の縁、動物の縁などなど頂きました。どれも有難い御縁ですが、こと仏縁に関しては本当にあって良かったなとしみじみ思います。






 
 
2021-02-09

◆弁才天像の修理に至るまでの経緯   ~弁天様との御縁の話 最終回~

前回その6はこちら

修理前の弁才天です。開眼後の写真はちょっと撮れないと思いましたので、発遣後のお写真です。


私は仏像好きなので、今までお参りにいったお寺で撮影の許可を頂いたら仏像の写真を撮っていましたが、今後はそういうこともより慎重になりそうです。やはり寺院で祀られる仏像は全て開眼されているので、そう気軽に撮ってはいけないものだと、自分が弁才天像の供養に立ち会ったことで、勉強・・・というより思い知らされました。

弁才天像 修理前

厨子は新品同様の直しをしましたが、弁才天は現状を維持したまま、古色を保ったまま直すことにしました。やはり様々な人が拝んだと思いますので、そういう歴史を感じるような直しにするのも大事かなと思った次第です。
 
 
手を入れた個所を言えば、まずは全体的に埃が堆積しているので、お掃除ですね。

 
弁才天像 修理前②

それと亡失した個所の修復です。青○部分には鳥居があったはずです。宇賀弁才天像は、弁天様の頭上に宇賀神というお顔が老人、体が蛇の神様が乗っています。この神様の由来をしらべたら、どうも稲荷神と同体であるようです。
 
 
それと青矢印の部分。頭に被る宝冠ですが、頭に刺さって固定してありますので、これをまず抜くことにしました。何か仏像の頭に飾りを刺して固定するというのが、どうにも辛そうというか、いけないような気がしたからです。
 
 
仏師さんに聞けば、当時の仏像の作り方でこういう差し込むというのは、割とあったそうです。
 
 
古美術品として見れば、当時の作り方を忠実に踏まえて直さねばならないでしょうが、信仰の対象としてこれからも祀っていきたいので、心の声に従いました。冠の飾りは引き抜き、残った穴は埋めてもらい、亡失した鳥居共々新造することにしました。
 
 
新造した冠は輪っか状にしてもらい、上から被せる形にしました。
 
 
弁天様の背後の円光背は、中心がずれているので正面にくるようにしてもらい、光背の飾りの一部変形している個所も元通り直してもらいました。
 
 
弁才天像 修理前③

宇賀弁才天は八本の腕がありますが、それぞれの手には持物があります。画像で言えば上が鍵、下が矢です。鍵は宝蔵の印やくとも言いますが、悟りを開くための知恵が詰まった蔵を開ける鍵、矢は愛染明王が持っている弓矢の矢です。(確か)
 
 
これもひん曲がっていましたので、元通り直してもらいました。折れたら新造して下さいと伝えましたが折れなくて良かったです。こういう仏像はそうそう触ることは出来ないので、何故にこんなに持物が変形しているのか謎でしたが、頻繁に持ち運びで移動していたとすれば、揺れる度にぶつけて曲がったのかもしれないですね。
 
 
弁才天像 修理前④

蓮花台の下の板裏も漆が剥がれてボロボロだったので、一旦剥いで塗り直してもらいました。
 
 
弁才天像 修理後①

こちらが修理を終えた弁才天像。写真の撮り方のせいかもしれませんが、修理前と随分印象が変わったような・・・。


全体的に掃除をしてもらったことで、思った以上に色彩が豊かな像だと分かりました。変形した持物、光背も当初の様相に近付いたかと思います。
 
 
弁才天像 修理後②

鳥居付の宝冠も立派です。仏師さんからは金色のままか、あるいは古色仕上げにするか聞かれたので、古い像に冠だけピカピカはおかしいかなと思い、古色仕上げにしてもらいました。
 
 
家に弁才天像を持ち帰り、良くなったなぁと眺めていた所「あれっ?」と思う箇所を見つけました。手に持つ剣です。


弁才天像 修理後④

修理前の剣はくの字に折れ曲がっており、修理後はまっすぐになっていましたが、冠から垂れる衣(?)が剣の前にあったのです。

弁才天像 修理後③

この場合、衣は剣の後ろにあるのが自然です。蔵書の中から弁才天像の写真を探しましたが、同じような形状の冠の場合、やはり剣の後ろに衣が来ているのが正しいようでした。
 
 
「どうしよう。直すか?」
 
 
と考えましたが、自分よりもはるかに仏像の造形に詳しい仏師が、果たして間違えるだろうか?これは理屈が分かっている仏師でも、こういう形にさせられたのでは?と思いました。


こちらの宇賀弁才天様は、滅多なことでは剣を振るいたくないのではと解釈しました。
 
 
父に聞けば、「在家で祀るには、この姿の方がよりマイルドになるからもう触らない方が良い」というのが見解でした。
 
 
弁才天は七福神として、紅一点の女神として庶民の神様となりました。御利益的には金運・財運・芸事の神様とされました。しかし、本来は才能の神、弁舌の神であり、うんと古い時代は「怨敵退散」の御利益があるとされてきました。
 
 
そういう歴史を踏まえると、聞きたくもない願いを聞いた可能性も否定できません。その傷んだ姿からすれば、かなりご苦労された弁天様ではないか?と推測しました。
 

さて、こうして完成した弁才天像。開眼の儀式もA和尚に御尽力頂き、無事終わりました。

 
現在、毎日お参りしておりますが、ここまでこれたのも、遠方よりお経を上げに来てくれたお坊様、また丁寧な直しをして頂いた仏師さん、私の行動を理解してくれた家族、そして直すチャンスを与えて下さった弁天様のお陰です。何が一つ欠けてても成し遂げれなかったでしょう。本当にありがとうございました。
 
 
ただ、これからがまた大変でもあります。頂いた御縁をどうするか、どう繋げていくか、そして私自身も心の勉強をしなければと思う今日この頃です。
 
 
今回のテーマはこれにて終わりです。最後まで読んで頂きありがとうございました。



プロフィール

紅葉屋呉服店:店主 加藤大幾

Author:紅葉屋呉服店:店主 加藤大幾
名古屋市内で呉服中心で古美術も扱っているお店をやっています。

主に趣味のお寺と神社の参拝を中心としたブログです。

◆紅葉屋呉服店
momijiyagohukuten.com

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